小説置き場

第4話「夜間帯域の残響」

2,186文字 約5分

二回目のブルー・ノートは、夜だった。

 午後十時。落書き消しのバイトの前に寄った。飛羽が「来るなら十時」と言ったので来た。理由は聞いていない。聞いても答えなかっただろう。

 ドアを開けると、カウンターに人がいた。

 飛羽ではない。

 女性。二十代半ばくらい。髪は短く、耳の上で切り揃えてある。パーカーの上にダウンベストを羽織っている。ノートパソコンを広げて、画面を三つのウィンドウに分割して何かを打ち込んでいる。タイピングが異様に速い。指が画面の光を弾いている。

 透が入ってきたのに気づいて、顔を上げた。

「あー。カナリアくん?」

「え」

「飛羽さんから聞いてる。耳鳴りの子。高校生でしょ? 若」

 透はカウンターの端に座った。飛羽の姿はない。店主がいつものように無言でコーヒーを出した。

「飛羽さんは」

「裏。電話。すぐ戻ると思うよ」

 女性はノートパソコンに視線を戻した。画面を横目で見ると、コードだ。プログラムのコード。黒い背景に緑の文字が流れている。ターミナルのウィンドウが二つ開いていて、残りの一つはSNSのダッシュボードのようなものだった。

「あの」

「ハルカ。名前。本名じゃないけど、ここではこれで通ってる」

「透です」

「知ってる。槙透。飛羽さんが珍しく名前出したから覚えた」

 ハルカはコーヒーを一口飲んで、画面を指差した。

「今ね、エンリングのアクティビティログ追ってんの。昼間、霞崎区のエリアでちょっと変な波形が出てて」

「エンリング?」

「SNS。国内最大手。私、そこの派遣社員。昼は普通にオフィスで働いてる。夜はここで、まあ、昼の仕事の延長みたいなことしてる。延長っていうか、昼は表で働いて夜は裏で壊してるっていうか」

 透は理解が追いつかなかった。ハルカは笑った。

「簡単に言うとね。エンリングのアルゴリズムが、ときどきおかしなことをするの。特定のエリアで、特定の時間帯に、特定のタイプの投稿が異常に拡散される。偶然じゃないパターンで。それを見つけて、飛羽さんに教える。飛羽さんが物理的に潰す。私はデジタル側の目」

「じゃあ、飛羽さんの」

「仲間。チームって言うと大げさだけど。飛羽さんが腕、私が目、あんたが鼻。三人で一匹の犬くらいにはなるでしょ」

 裏口から飛羽が戻ってきた。コートの襟を直しながらカウンターに座った。

「ハルカ。霞崎の件は」

「ログ上は収まった。でも、波形に前兆パターンが出てる。直近で大きいのが来るかも。場所はまだ特定できてない」

「範囲は」

「槻ノ森市内。たぶん駅前から旧市街にかけて。時間帯は、これから二十四時間以内」

 飛羽は透を見た。

「今夜、落書き消しは中止だ。カナリアとして動いてもらう」

「何をすれば」

「歩け。駅前から旧市街まで、普通に歩け。耳鳴りがしたら、場所と時間と強さを報告しろ。それだけでいい」

 透は頷いた。

 三人でブルー・ノートを出た。外は冷えていた。十月の夜。コンビニの光が路面を照らしている。遠くで電車の音がする。

 飛羽は旧市街の方に消えた。ハルカは駅前のカフェに入った。ノートパソコンを開いて、リアルタイムでログを監視するらしい。

 透は一人で歩いた。正直帰りたい。でも、帰ったところで天井を見るだけだ。

 駅前のロータリー。タクシーが二台。バス停のベンチに酔っ払いのサラリーマンが一人。コンビニに出入りする人。金曜の夜にしては静かだ。

 耳鳴りはない。

 商店街を歩く。シャッターが降りた店。居酒屋から漏れる光と笑い声。自転車に乗った学生が通り過ぎる。

 耳鳴りはない。

 旧市街の入口。古い街灯。路地の奥に暗がりが広がっている。

 ——キン。

 鳴った。

 左の耳の奥。針で突いたような、鋭い一点の音。強くはない。教室で感じるのと同じくらい。だが、夜のこの時間に、人がまばらな場所で鳴ることの意味が違う。

 透はスマートフォンを取り出した。ハルカに教えられた暗号化メッセンジャーを開く。

 『旧市街入口。左耳。弱。22:47』

 三秒で返信が来た。ハルカから。

 『了解。そのまま北へ50m歩いて』

 歩いた。路地を北に。街灯が一本切れている。暗い。足元の石畳が濡れている。どこかで水が漏れている。

 耳鳴りが強くなった。

 キーンではなく、ジリジリという低い振動に変わった。頭蓋骨の底を這うような音。今までと違う質感。教室の同調圧力でもなく、深夜のスマホゾンビの高周波でもない。もっと地面に近い、重い音。

 『強くなった。質が違う。低い。重い。22:49』

 返信。飛羽から。

 『動くな。そこにいろ』

 透は立ち止まった。路地の暗がりに立っている。コートのポケットに手を入れた。寒い。息が白い。

 三分後、飛羽が路地の反対側から現れた。手に何か持っている。暗くて見えない。

「方角は」

「……北西。たぶん。音がそっちから来てる気がする」

「気がする、でいい。行くぞ」

 飛羽が歩き始めた。透はついていった。耳鳴りが道標になる。強くなる方向に進む。弱くなったら戻る。

 人間のGPS。精度は低い。だが、ハルカのログ解析が場所を絞り、透の耳が方角を示し、飛羽が現場に向かう。三人で一匹の犬。

 路地の突き当たり。古いアパートの前。一階の窓から青白い光が漏れている。

 耳鳴りが最も強い場所。

 飛羽はポケットからゴムボールを出した。二つ。

「ここだな」

 透の耳の奥で、ジリジリという音が鳴り続けている。重くて、暗くて、深夜の路地の底に溜まるような音。

 初めて——自分の耳鳴りが、誰かの役に立った。