翌日の教室は、昨日と同じだった。
同じ蛍光灯。同じ机の並び。同じ制服の列。前の席の佐藤が同じようにスマホを膝の上で触っている。右隣の女子が同じようにノートの端に落書きをしている。
同じ。
なのに、違って見えた。
昼休み。クラスメイトが弁当を広げる。五人くらいのグループが机をくっつけて食べている。誰かが動画を見せる。画面をグループの中心に置く。五人が画面を覗き込む。笑う。
耳の奥で、ぴき、と鳴った。
微かだ。深夜の路上で感じたものとは比べものにならないほど小さい。蛍光灯のインバーターノイズに紛れる程度の、気づかなければ気づかないくらいの音。
でも昨日までと、聞こえ方が違う。
昨日まで、この音はストレスだった。原因不明の体調不良。医者に行っても異常なし。気のせい。そう思うことにしていた。
今日から、この音には名前がある。
認知汚染。
五人が同じ画面を見て、同じタイミングで笑っている。それは普通のことだ。友達と動画を見て笑う。普通の昼休み。何も悪いことじゃない。
でも透の耳は鳴っている。
五人のスマホの通知音が、ほぼ同時に鳴った。全員が画面を見る。同じアプリ。同じ投稿。同じリアクション。親指が画面を上にスワイプする動きが、五人ほぼ同時に発生する。
普通。これは普通のこと。
普通なのに、昨夜の七人と——同じに見えた。
透は弁当の蓋を閉じた。食欲がなかった。
教室を出て、廊下の窓際に立った。グラウンドでサッカー部が練習している。ボールを蹴る音。誰かの笑い声。自販機のコンプレッサーが低く唸っている。それらの音はクリアに聞こえる。耳鳴りはない。
人が同期していないとき、耳鳴りは止む。
人がバラバラでいるとき、世界は静かだ。
六時間目の英語。教師が教科書を読ませている。透は当てられて、三行読んだ。発音が平坦だと注意された。いつもと同じだ。何も変わっていない。知らん。発音なんかどうでもいい。
変わったのは透の耳だけだ。
放課後。
透は槻ノ森の旧市街を歩いた。商店街を抜けて、路地裏に入る。昼間の旧市街は夜とは別の顔をしている。洗濯物を干している老婦人。自転車で新聞を配る少年。猫が塀の上で日向ぼっこをしている。
路地の奥に、古い喫茶店があった。
看板は木製。焼き印で「Blue Note」と彫ってある。文字は薄れかけていて、近づかないと読めない。ドアは重い木の引き戸。ガラスが嵌まっていて、中が見える。暗い。
飛羽が「何かあったら来い」と言って、住所を教えてくれた。住所というか、「旧市街の路地を入って、猫がいる方に曲がれ。突き当たりの左」という指示だった。猫はいた。三毛。透を見て、欠伸をした。
ドアを開けた。
コーヒーの匂いが鼻に入った。古い木材の匂い。レコードプレーヤーが回っている。ジャズ。トランペットの音が、スピーカーから柔らかく広がっている。カウンターが五席。テーブルが三つ。客はいない。
カウンターの奥で、白髪混じりの男がグラスを拭いていた。店主。六十代。丸い眼鏡。透を見て、特に何も言わなかった。
飛羽はカウンターの端にいた。コーヒーカップを手に、本を読んでいる。透に気づいて顔を上げた。
「早いな」
「学校が終わったので」
「座れ。コーヒーでいいか」
「……ブラックは飲めないです」
「ミルクと砂糖がある。好きにしろ」
透はカウンターに座った。店主が無言でコーヒーを出した。ミルクを入れた。砂糖を二つ。かき混ぜる。スプーンがカップの内壁に当たる音が、ジャズの隙間に落ちる。
一口飲んだ。苦い。でもミルクの甘さが後から来る。悪くない。
「今日、教室で耳鳴りがした」
「強さは」
「弱い。昨夜の百分の一くらい。でも、意味が分かると、見え方が変わった」
飛羽はコーヒーを啜った。本を閉じた。
「何が見えた」
「クラスメイトが同じ動画を見て笑って、同じ通知に同じリアクションをしてた。前からそうだった。でも今日は、昨夜の七人と同じに見えた」
「同じじゃない」
飛羽の声は、否定ではなく訂正だった。
「昨夜のは情報災害だ。AIが意図的にタイミングを同期させた。お前のクラスメイトがやってるのは、たぶん、ただの社会性だ。人間は群れる。同じものを見て笑う。それ自体は正常だ」
「じゃあ、なんで耳鳴りがしたんですか」
「境界が曖昧だからだ。正常な同調と、情報災害による強制同期の間に、明確な線はない。お前の耳は、その境界の近さに反応する。密度が高ければ高いほど鳴る。教室は密度が高い場所だ。人が近くて、情報が近くて、同調圧力が強い」
透は黙った。
つまり。
教室にいる限り、耳鳴りは止まらない。
「慣れるんですか」
「慣れない」飛羽は即答した。「だが、鳴っている音の意味を読めるようにはなる。ストレスで鳴っているのか、汚染で鳴っているのか、ただの同調圧力で鳴っているのか。区別がつくようになれば、少しは楽になる」
「少し」
「少しだ。俺は嘘をつかない」
レコードが一曲終わった。針がレコードの溝を空回りする音が、しばらく続いた。店主が立ち上がってレコードを裏返した。B面が始まる。サックスの低い音。
透はコーヒーを飲んだ。ミルクの甘さが舌に残る。
ここでは耳鳴りがしなかった。
客は透と飛羽だけ。店主は無言でグラスを拭いている。レコードの音だけが空気を満たしている。スマホの通知音も、SNSのタイムラインも、同調圧力もない。
ただ、コーヒーと音楽がある場所。
「ここ、いい店ですね」
飛羽は答えなかった。だが口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
透はそれを見て——ああ、この人にも笑う顔があるのかと、少しだけ驚いた。