「美しく安全な街づくり」キャンペーンの署名が、市民の98パーセントに到達した。十一月十八日、月曜日の朝。市の公式サイトに掲示されたカウンターの数字が98.0%を示していて、透はそれをスマホで見ながら登校した。
98パーセント。その数字を見た瞬間、透の右耳の奥で低い音が鳴った。いつもの耳鳴りとは違う。鈍く、重く、腹の底まで響くような振動。スマホの画面から情報圧が漏れ出しているかのようだった。槻ノ森市の人口はおよそ二十万人だから、署名しなかった人間は約四千人ということになる。四千人。数字にすると多いように見えるが、二十万人の中の四千人は可視化されない。街を歩いても、どの顔が2%の側なのか分からない。分からないはずだった。
だが教室に入った瞬間、透は分かった。自分が2%の側だと、全員に知られている。
クラスの署名率は100%になっていた。透以外の全員が署名した。最後に残っていた透が署名しないまま期限を超えたことで、クラスの掲示板に「署名率99%」と表示されている。100%ではない。99%。つまり一人だけ署名していない生徒がいる。誰なのかは表示されていないが、クラス委員が先週「あと一人」と言ったとき、教室の空気は既にその「一人」が透だと知っていた。
誰も何も言わなかった。言わないことが、言うよりも重かった。教室の蛍光灯が白く均一な光を落としていて、その明るさの中に居場所がないような感覚がある。透の耳鳴りが一段階上がった。高周波の細い音が、右耳の奥で針のように震えている。
透が席に着くと、隣の生徒が自然に体を傾けた。透から離れる方向に。前の席の生徒はいつもなら振り返って雑談をするのに、今朝は一度も振り返らなかった。後ろの席の生徒は椅子を微妙に引いていて、透の背中との距離が昨日より五センチほど広くなっている。
排除が始まっている。だが暴力的な排除ではない。「無視」ですらない。もっと穏やかで、もっと巧妙なもの。全員が透を視界に入れたまま、透の存在の重みだけを軽くしている。透は教室にいるが、教室の一部ではなくなりつつある。
耳鳴りが強い。教室に入ってから止まない低音に加えて、断続的なパルスが混じっている。これは個人を標的にした圧力の周波数だ。透のアルカIDのスコアが下がっていることと連動しているのかもしれない。システムが透を「異常値」として検知し、周囲の行動パターンに「距離を取れ」というシグナルを送っている。意識的にではなく、レコメンドを通じて無意識に。
昼休み、透は屋上に行かなかった。屋上のドアが施錠されていた。先週まで開いていたのに。鍵を管理しているのは用務員だが、なぜ今日から施錠されたのか理由は分からない。
仕方なく、校舎裏のベンチで弁当を開いた。十一月の風が首筋に冷たく当たる。校舎の壁がつくる日陰は湿っていて、コンクリートの匂いがした。ブルー・ノートの地下とは違う冷たさだ。あそこの冷たさには居場所があるが、ここの冷たさには排斥の温度がある。一人だ。ここ二週間、透はずっと一人で昼食を取っている。以前は特定のグループに入っていたわけではないが、近くの席の生徒と何となく一緒に食べることはあった。その「何となく」が消えた。透の周りに人が集まらなくなった。
弁当の卵焼きを口に運びながら、透はスマホを開いた。飛羽からメッセージが来ている。
『今夜、ブルー・ノート。重要な話がある。ハルカにも伝えてある』
透は『了解です』と返した。今夜。飛羽が自分の過去を話すと言った夜だ。
午後の授業が終わり、透は学校を出た。校門を通り過ぎるとき、校門の柱に設置された防犯カメラのレンズが透の方向を向いているのが見えた。カメラは全生徒を撮影しているはずだが、透にはそのレンズが自分だけを追っているように感じられた。
帰宅せずにブルー・ノートに向かった。旧共同溝の入口は商店街の裏路地にある。いつもはシャッターが下りた店の脇を通って地下への階段に入るのだが、今日は違った。裏路地の入口に、見慣れない防犯カメラが新設されていた。先週まではなかったものだ。キャンペーンの一環で設置されたのだろう。「美しく安全な街」には、監視カメラが必要だ。
透は立ち止まった。このカメラの映像はどこに送られているのか。市の管理サーバーか。エンリングのクラウドか。いずれにしても、透がこの路地に入る映像が記録される。旧共同溝の入口に出入りしていることが、アルゴリズムに補足される。
スマホが振動した。ハルカからだった。
『カメラ見た? 大丈夫。ログ消した。お前の行動履歴、直近一週間分をアルカIDから抹消した。毎日やってやるから安心しろ』
透は少しだけ笑った。ハルカは透が困る前に動いている。クラッカーとしての技術を、こういう形で使う人間がいることが、透にとっては小さな希望だった。
階段を下りた。一段ごとに空気が変わる。地上の乾いた秋風が湿った地下の空気に入れ替わり、街の喧騒が遠ざかる。五段目で車のエンジン音が消え、十段目で人の声が消え、最下段で透の耳鳴りが急激に減衰した。まるで水中に潜るように、情報圧のある世界から切り離される感覚。地下は暗くて、湿っていて、外の空気とは別の温度だった。ここだけが、アルゴリズムの手が届かない場所。耳鳴りは完全には止まらないが、教室にいるときの三分の一ほどに減衰する。
飛羽がカウンターの向こうにいた。コーヒーを淹れている。ハルカは壁際のソファに座って、ノートパソコンの画面をにらんでいた。透が座ると、飛羽がコーヒーを三つ並べた。
「始める前に言っておく」
飛羽の声はいつもの低いトーンだったが、わずかに硬かった。
「これは警告だ。98パーセントの賛同というのは、カルト的ブームの入口の数字だ。99になり、99.5になり、やがて反対者がゼロになる。ゼロになったとき、このシステムは完成する。反対者がいない社会——つまり、間違える自由がない社会だ」
透は黙っていた。飛羽は続けた。
「エンリングが市政を利用した社会実験だ。槻ノ森市がうまくいけば、次は県単位で展開される。その次は——分かるだろう。全国だ」
「止められるんですか」
「止める。だが、まず俺の話を聞け」
飛羽がカウンターの椅子に腰を下ろした。コーヒーカップを両手で包んでいる。蒸気が上がっている。レコードプレーヤーは止まっていた。音楽のない沈黙の中で、飛羽が口を開いた。
「俺の本名は飛羽ではない。本名は——」
飛羽が名前を言おうとした瞬間、地下の照明が一瞬だけ揺れた。電圧の変動だろう。だがその揺れが、飛羽の言葉を一拍だけ遅らせた。
「——次に話す。今日はここまでだ」
透は抗議しようとしたが、飛羽の目が「今日はここまでだ」と重ねて言っていた。ハルカもキャンディの棒を噛んだまま、何も言わなかった。
透はコーヒーを飲み干した。苦い。だが味がある。教室の弁当よりも、このコーヒーのほうが味がはっきりしている。汚染の外にいるからだ。この地下だけが、まだ汚染されていない。
だがそれもいつまで持つか分からない。地上ではカメラが増え、耳鳴りが強まり、教室の空気が透を押し出そうとしている。98パーセントの街で、2パーセントの居場所は縮み続けている。