小説置き場

第23話「レコメンドの裏チャネル」

3,061文字 約7分

ブルー・ノートの地下に降りると、飛羽がホワイトボードの前に立っていた。普段はカウンターに座って淡々としている男が、立って待っているのは珍しい。ホワイトボードにはマーカーで図が描かれていて、中央に「調律師」と書かれた箱から、矢印が四方に伸びている。矢印の先にはSNS、アルカID、市政、メディアの文字がある。

 階段を降りるたびに、地上の音が遠ざかる。車のエンジン音、どこかの換気扇の回転音、アスファルトを叩く靴音——それらが一枚ずつ剥がされていく。代わりに、旧共同溝の湿った空気と、レコードの回転するかすかな摩擦音が耳を包む。ここでは透の耳鳴りも半音ほど下がる。透が階段を降りきる前に、飛羽が口を開いた。

「これは局所的な炎上じゃない。システムが動き始めた」

 透は飛羽の前に座った。ハルカはまだ来ていない。テーブルの上にはノートパソコンが二台開いていて、片方に槻ノ森市のキャンペーンサイトが表示されている。もう片方にはコードが流れている。ハルカが解析途中で残していったものだろう。

「システムって何ですか」

「エンリングが開発したAIアルゴリズム——俺たちが『調律師』と呼んでるやつ。あれが市政と連動している。キャンペーンは表向きの旗で、実態は調律師が市民のSNS行動を制御するための社会実装テストだ」

 飛羽はホワイトボードの図を指でなぞった。中央の「調律師」から出た矢印が、それぞれのノードを経由してまた中央に戻っている。循環構造だ。

「仕組みはこうだ。調律師がSNSのレコメンドエンジンにパラメータを注入する。ユーザーのタイムラインに特定のコンテンツが優先表示される。賛同的な投稿が上に来て、批判的な投稿が下に沈む。ユーザーは自分の意志で情報を選んでいるつもりだが、実際にはアルゴリズムが選んだ情報を見せられている」

 透は頷いた。それ自体は珍しいことではない。SNSのレコメンドアルゴリズムがユーザーの行動を誘導していることは、もう常識だ。

「ここまでは普通のSNS運営だ。問題はその先にある」

 飛羽がホワイトボードの「アルカID」の箱を叩いた。

「レコメンドの結果がアルカIDの信用スコアにフィードバックされている。キャンペーンに賛同する投稿をすればスコアが微増する。批判的な投稿をすればスコアが微減する。高木のケースはスコアが閾値を割った結果のアカウント停止だ。規約違反なんて名目だよ。実態はスコアベースの排除だ」

 透の耳の奥で、耳鳴りの音程が変わった。低い持続音の中に、チリチリという高周波のノイズが混じっている。飛羽の話が核心に近づいている。透の耳はそれを察知している。

「さらに、アルカIDのスコアは市政の行政サービスと連動している。図書館、交通、教育、医療。スコアが低い市民は行政サービスの優先度が下がる。逆にスコアが高い市民は優遇される。市長の『美しく安全な街づくり』キャンペーンは、このシステムを社会に実装するための政治的カバーストーリーだ」

 透は飛羽の顔を見た。飛羽はいつもの無表情だったが、目の奥に何かがあった。怒りではない。もっと古い感情。後悔に近い何か。

「飛羽さん。これ、前にも見たことがあるんですか」

 飛羽の手が止まった。マーカーのキャップを閉める動作が一瞬だけ遅れた。

「……ある」

 その一言の響きが、地下室の壁に吸い込まれた。レコードの針がトラックの溝を辿る微かなスクラッチ音だけが残った。飛羽の声には、普段の分析者の冷静さとは違う質感があった。砂利を踏むような、乾いた重さ。

「どこで」

 飛羽は答えなかった。マーカーをテーブルに置いて、椅子に座った。コーヒーカップに手を伸ばし、冷めきった黒い液体を一口飲んだ。透は飛羽の沈黙を見ていた。この男が言葉を飲み込む瞬間を、透は何度か見たことがある。過去について触れたとき。自分の経歴に話が及びそうになったとき。飛羽には語らない領域がある。

「それは今は関係ない」

 飛羽がそう言って、話を切った。だが透は聞き逃さなかった。「前にも見た」。飛羽はこのシステムを知っている。知っているということは、関わったことがあるということだ。設計したのか。運用したのか。それとも——壊そうとしたのか。

「今重要なのは、これが実験段階だってことだ」と飛羽は続けた。「槻ノ森市は全国的に見れば小さな街だ。人口二十万。ちょうどいいサイズだよ。システムの挙動を検証して、問題を洗い出して、改良して、次はもっと大きな都市に展開する。槻ノ森はテストベッドだ」

「テストベッド」

「実験場。槻ノ森の市民が気づかないうちに、自分たちが実験台になっている。そしてお前の学校は、その中でも特に管理しやすいサンプルだ。年齢が均一で、物理的に閉じた空間にいて、社会的な移動手段が限られている。学校という箱の中で、アルゴリズムがどれだけ効率的に同調を生成できるかを測っている」

 透は自分の手を見た。指先が微かに震えていた。寒さではない。飛羽の言葉が内臓のどこかに落ちて、まだ振動している。教室で板書を写していた手。全員と同じタイミングでページをめくっていた手。署名のリンクを「あとでやる」と先送りにした手。

 この手は、もうシステムの中にいる。

「どうすればいいんですか」

「まず、お前は署名するな。あと、ハルカが調律師のAPIパターンを解析中だ。内部犯行者——レコメンドエンジンにパラメータを注入している人間——の特定に近づいている。そいつを見つければ、システムの根を断てる」

 透は頷いた。頷きながら、飛羽の「前にも見た」という言葉が頭の中で反響していた。この男は何者なのか。なぜこのシステムを知っているのか。

 ブルー・ノートを出たのは深夜一時だった。旧共同溝の階段を上がると、十一月の夜気が頬を叩いた。地下の静けさから地上に出た瞬間、耳鳴りが戻ってきた。待ち構えていたかのように、鼓膜の奥に低い振動が張り付く。息が白い。商店街のシャッターが全部降りていて、街灯だけが道を照らしている。透は自転車を押しながら帰路を歩いた。

 歩きながらスマホを開いた。クラスのグループチャットは静まっている。最後のメッセージは「署名率97%」のまま更新されていない。あと一人。透だ。明日の朝、教室に入ったとき、クラスメイトの目が透に向くだろう。「まだ署名してないの?」という視線が。

 透はスマホを閉じて、ポケットに入れた。夜道の蛍光灯がちらついている。安定器が劣化しているのだろう。ジジジという音が聞こえる。その音が、教室で聞こえる耳鳴りと同じ周波数帯だった。

 夜の商店街は、昼間の喧騒が嘘のように沈黙している。シャッターの金属面が街灯の光を鈍く反射して、道の両側に薄い壁を作っている。蛍光灯の下を通り過ぎるとき、透は上を見上げた。白い光の中に虫が集まっている。光に引き寄せられて、ぐるぐると同じ軌道を回り続けている。虫は自分が光に操られていることを知らない。知らないから、幸せそうに見える。

 透は自転車に跨がって、ペダルを踏んだ。耳鳴りは止まなかった。家に帰って布団に入っても、たぶん止まらないだろう。この街の空気そのものが汚染されているなら、どこにいても同じだ。

 ただひとつだけ分かったことがある。飛羽はこのシステムを「前にも見た」と言った。見たということは、壊す方法も知っているかもしれない。知っているなら、教えてほしい。透一人では何もできない。センサーは警報を鳴らすことしかできない。警報を聞いて動く人間が必要だ。

 その人間が飛羽なのかどうか、透にはまだ分からなかった。