小説置き場

第22話「同期する沈黙」

2,935文字 約6分

高木が学校に来なくなって三日が経った。火曜、水曜、木曜。三日連続で席が空いている。担任はホームルームで出席を取るとき、高木の名前を読み上げて「欠席」と記録する。それだけだ。理由を説明することも、心配する素振りを見せることもない。高木の名前は出席簿の上にだけ存在し、教室の空気からは完全に消えていた。

 透の耳の奥で、低い振動音が朝から鳴り続けていた。目覚ましのアラームを止めたときから、もう始まっていたかもしれない。家を出て、通学路を歩いて、校門をくぐるあいだ、音量は少しずつ上がり、教室に入った瞬間から明確になる。月曜日までは授業の合間に途切れることもあったが、火曜からは一日中止まらなくなった。音量は大きくない。だが途切れないことが問題だった。水の中にいるような圧迫感が頭蓋の内側に張り付いていて、何を見ても薄い膜越しに見ているような感覚が続く。

 教室の空気は、高木がいた頃とは明確に変わっていた。変わったのは温度でも湿度でもなく、「揺れ」だ。かつての教室には微かな揺れがあった。誰かが小声で不平を言い、誰かが居眠りをし、誰かがスマホを隠れて見て、誰かが窓の外を見ている。三十五人の生徒がそれぞれに勝手なことをしていて、その雑多さが教室の空気を揺らしていた。

 今はその揺れがない。全員が前を向いている。全員が板書を写している。全員が同じタイミングで教科書をめくっている。揃いすぎている。軍隊の整列のような統制ではなく、もっと自然な——自然に見える——同期。誰かに命令されたわけではなく、全員が「そうするのが正しい」と感じた結果の一致。

 透はその一致の中に座っていた。自分も板書を写している。自分もページをめくっている。だが透の手は無意識に動いているだけで、頭の中は耳鳴りでいっぱいだった。

 水曜日の昼休み。チャイムが鳴った瞬間、教室に弁当を広げる音とビニール袋の擦れる音が一斉に立ち上がった。三十四人分の昼食の気配が、均質な生活音として教室を満たす。透は教室にいられなくなって屋上に逃げた。弁当を開いたが、二口食べたところで箸が止まった。耳鳴りのせいで食べ物の味がぼやけている。塩味だけが舌に残って、他の味覚が消えている。飛羽が言っていた。「慢性的な認知汚染は味覚に出ることがある。脳のリソースが汚染の処理に割かれて、感覚器の精度が落ちる」。

 フェンス越しに校庭を見下ろした。昼休みの校庭はいつもなら雑然としている。サッカーをする集団、ベンチで喋る集団、一人で本を読む生徒、走り回る下級生。だが今日の校庭は、それぞれの集団の動きが——わずかに揃って見えた。

 サッカーをしている五人がほぼ同じタイミングでボールの方向を見る。ベンチの三人がほぼ同時にスマホを取り出す。一人で歩いていた生徒が、別の一人で歩いていた生徒と同じ速度で同じ方向に曲がる。

 偶然かもしれない。人間の動作は環境に影響される。同じチャイムを聞き、同じ日差しを浴びていれば、行動パターンが似通うことはある。透が過敏になっているだけかもしれない。

 だが耳鳴りは嘘をつかない。透の耳は「何かがおかしい」と鳴り続けている。この三ヶ月で、耳鳴りが間違っていたことは一度もなかった。飛羽が透を「炭鉱のカナリア」と呼んだのは伊達ではない。透の耳は情報災害のセンサーだ。そのセンサーが、この学校の空気が汚染されていると告げている。

 その夜、透はブルー・ノートで飛羽に報告した。地下の旧共同溝に降りる階段を下りながら、この三日間で教室がどう変わったかを話した。飛羽はカウンターの向こうでレコードの針を落としながら、無表情に聞いていた。マイルス・デイヴィスのトランペットが低く響いている。

「耳鳴りの質が変わった。前は断続的だったのが、今は朝から晩まで止まらない」

「慢性化してる。汚染が環境に定着した段階だ」

「定着?」

「ウイルスで言えば、感染から常在に移行した状態。もう特定の投稿やコンテンツが汚染源なんじゃない。空気そのものが汚染されてる。教室にいるだけで浴びる。避けようがない」

 飛羽はコーヒーカップを透の前に置いた。黒い液体の表面に地下の蛍光灯が映っている。旧共同溝の壁面を伝う水滴の音がぽつりぽつりと響く。この地下では耳鳴りが和らぐ。地上の電波が届かないせいか、あるいは飛羽が仕掛けた何らかの遮断があるのか。透にはまだ分からない。

「高木ってやつは最初の見せしめだ。一人潰せば残りは自発的に従う。コストの低い統制だよ。権力が直接手を下す必要すらない。システムがアカウントを止めて、周囲が同調して、本人が孤立する。全部自動。人手ゼロの粛清だ」

 透はコーヒーを一口飲んだ。苦い。舌の上で液体が広がるが、奥行きのある味わいには届かない。飛羽がいつも丁寧にハンドドリップで淹れるこのコーヒーには、本来もっと複雑な層があるはずだ。味覚がまだ鈍っているが、苦味だけは感じる。

 木曜日。五限目の終わり。クラスのLINEグループに一通のメッセージが流れた。差出人はクラス委員の女子。「みんな、『美しく安全な街づくり』の署名、もう書いた? まだの人はお願いします!」。メッセージの末尾にリンクが貼ってある。署名用のオンラインフォームだ。

 透はリンクを開かなかった。親指が画面の上で止まっている。心臓の鼓動が耳鳴りと重なって、こめかみの奥で脈打つ。だが教室を見回すと、ほぼ全員がスマホを取り出してリンクを開いている。タップ、スクロール、名前の入力、送信。十五秒。一人あたり十五秒で署名が完了する。透の席の前も後ろも左も右も、全員がほぼ同じ動作を同じ速度で行っていた。

 透のスマホが振動した。クラス委員からの個別メッセージ。「槙くん、署名まだみたいだけど、大丈夫?」。

 大丈夫、という言葉の意味が分からなかった。署名しないことが「大丈夫じゃない」状態なのか。それとも、署名しない理由があるなら心配しているのか。文面からは判別できない。だがクラスの全員が署名した中で、自分だけが署名していないことを個別に指摘された時点で、これは心配ではなく圧力だと透は理解した。

 『ありがとう、あとでやるね』

 そう返した。嘘だ。やるつもりはなかった。だが今この場で「署名しない」と宣言する度胸は透にはなかった。自動販売機は求められたボタンを押す。押さないまでも、「あとで」と先送りにして場をやり過ごす。

 教室を出るとき、耳鳴りがひときわ大きくなった。低音の持続音に、微かな高音が混じっている。パルスのような断続音。これは——個人を標的にした圧力の周波数だ。透が署名していないことを、システムが検知している。

 透は足早に廊下を歩いた。ポケットのスマホが振動する。クラスのグループチャットに新しいメッセージ。「署名率がクラスで97%になりました! あと一人!」

 あと一人。透だ。

 廊下の窓から外を見た。呼吸を整えようとしたが、廊下の空気にも教室と同じ圧が残っている。壁に貼られたキャンペーンのポスターが、等間隔に並んでいる。夕方の校庭に、部活に向かう生徒たちの影が伸びている。その影の長さが、全員ほぼ同じだった。当然だ、同じ太陽の角度で照らされているのだから。だがその「当然」が、透にはもう当然に見えなかった。