高木渉のアカウントが消えたのは、月曜日の朝のことだった。一限目のホームルームが始まる前、教室の隅で何人かが集まってスマホを覗き込んでいる光景はいつもと変わらなかったが、その輪の中心にいる高木の顔色だけが違っていた。
透はそれを窓際の席から見ていた。蛍光灯の安定器が微かに唸っている。その音が透の鼓膜の奥で、もうひとつ別の音と重なる。まだ名前をつけられない種類の不協和音。高木は別に友達ではない。同じクラスにいるだけの関係で、話したことも数えるほどしかない。だが高木が先週の土曜日に投稿した内容は知っていた。「美しく安全な街づくりキャンペーン」に対する批判的な意見。具体的には、市が民間企業と連携してAI監視を導入することへの懸念を、十数ツイートに渡って書いていた。冷静な文体で、論理的な指摘で、データの引用もあった。炎上するような書き方ではなかった。
にもかかわらず、高木のアカウントは月曜日の朝には停止されていた。
プロフィール画面にアクセスすると「このアカウントは規約違反により停止されています」と表示される。どの規約に違反したのかは書かれていない。異議申し立ての手順も示されていない。ただ、消えた。
問題はアカウントの停止だけではなかった。このSNSプラットフォームはアルカIDと連携している。アルカIDは槻ノ森市が導入した統合認証基盤で、学校の出席管理、図書館の貸出、公共施設の予約、交通系ICカードとの連携——あらゆるサービスがこのIDに紐づいている。SNSアカウントが停止されるということは、アルカIDの信用スコアに影響するということだ。
高木は図書館で本を借りられなくなった。学食の電子決済が使えなくなった。学校のWi-Fiへの接続が拒否された。教室のタブレット端末にログインできなくなった。
「社会的な死」という言葉が透の頭に浮かんだ。指先が冷たくなるのを感じた。自分ではない誰かの身に起きたことなのに、胃の底が重くなる。物理的には生きているが、デジタル社会から排除される。二〇二五年の日本で、それはほぼ透明人間になることを意味した。
教室の空気は奇妙なほど穏やかだった。高木のことを話している生徒はいたが、声のトーンは同情ではなく評価だった。「まあ、あんなこと書いたら仕方ないよね」「キャンペーンに反対とか、空気読めてないし」「規約違反なんだから自業自得でしょ」。
透の耳の奥で、低い振動音が鳴り始めた。
この三ヶ月で透は耳鳴りの種類を聞き分けられるようになっていた。情報災害——認知汚染——の種類によって、耳鳴りの質が変わる。急性の認知汚染は高音のキーンという金属的な音。慢性的な同調圧力は低い持続音。個人を標的にした攻撃は断続的なパルス。
今、教室に満ちているのは低い持続音だった。慢性的な同調圧力。生徒たちが自発的に同じ方向を向いている——ように見えて、実際にはアルゴリズムが生成したレコメンドによって「同じ情報」を浴びせられた結果、同じ結論に到達しているだけだ。洗脳ではない。もっと穏やかで、もっと巧妙なもの。快適な同調。異論を持つことが「空気を読めない」行為として自然に排除される空間。
高木は教室の隅で、使えなくなったスマホの画面を見つめていた。透と目が合った。高木の目には怒りも悲しみもなく、ただ困惑があった。何が起きたのか理解できていない顔だ。規約に違反した自覚はない。論理的な意見を書いただけだ。それなのに、社会から切り離された。
透は目を逸らした。窓ガラスに自分の顔が薄く映っている。その顔は高木と同じ困惑を浮かべていたかもしれない。だが透にはそれを確かめる勇気がなかった。
何も言えなかった。高木に声をかけることも、教室の空気に異を唱えることも。透の中の「自動販売機」——求められた反応を返す装置——が、ここで黙っているのが最も安全だと判定していた。声を上げれば、次に停止されるのは透のアカウントかもしれない。透のアルカIDが止まれば、飛羽との連絡手段が断たれる。ブルー・ノートへの出入りも記録される。夜の仕事ができなくなる。
だから黙っている。黙って、窓の外を見ている。それが透の選んだ——選ばされた——行動だった。
二限目の英語の授業中、透は自分の手元を見ていた。教科書のページが開いている。文字が並んでいる。だがその文字を読んでいるのか、見ているだけなのか、自分でも分からなかった。耳の奥の低音が、教科書の英文のリズムに被さって、授業の内容が頭に入ってこない。
隣の席の生徒がノートを取っている。その文字が均一で、整然としていて、教師の板書を忠実にコピーしている。先週まで、この生徒は高木と昼食を一緒に取っていた。今朝、高木のアカウント停止について訊かれたとき、この生徒は肩をすくめて「規約違反なんでしょ」と答えた。それだけ。先週まで友達だった人間に対する反応が、それだけだった。
それが怖い、と透は思った。高木が消されたことよりも、消された高木に対する周囲の反応の軽さが怖い。まるで最初からいなかったかのように、教室は回り続けている。席が一つ空いているだけで、それ以外は何も変わっていない。
だが耳鳴りは止まらなかった。むしろ静かな教室ほど、耳の奥の音が際立つ。机の木目を指でなぞりながら、透は自分の鼓膜が何を拾っているのかを必死に聞き分けようとしていた。教室の空気が歪んでいる。生徒たちの笑い声の周波数が、微妙に揃いすぎている。まるでチューニングされたかのように。
昼休み、透は屋上に逃げた。一人で弁当を開いて、フェンス越しに校庭を見下ろした。グラウンドで体育の授業をしているクラスがいる。生徒たちが走っている。同じ方向に。同じ速度で。号令に従って。それは体育の授業なのだから当然だが、透にはその整然とした動きが、教室で全員が同じ意見を言う光景と重なって見えた。
スマホを開いた。飛羽にメッセージを送る。
『高木のアカウントが止められました。キャンペーン批判の投稿が原因です。教室の空気がおかしい。耳鳴りが止まりません』
返信は三分後。
『予定通りだ。次は「自主的な」通報が始まる。隣人が隣人を監視する段階に入る。学校から出ろ。今夜、ブルー・ノートで』
透はスマホを閉じた。屋上の風がコンクリートの匂いを運んでくる。どこかで工事をしているのか、遠くから断続的に金属を叩く音が聞こえた。その音すら、耳鳴りのフィルタを通すと歪んで届く。弁当の残りを機械的に口に運んだ。味がしなかった。耳鳴りが食べ物の味覚まで浸食しているのか、それとも単に食欲がないのか。
午後の授業は何事もなく進んだ。高木の席は空だった。昼前に早退していた。誰も追いかけなかった。担任も何も言わなかった。明日の連絡事項を読み上げて、号令をかけて、教室を出て行った。高木の名前は一度も出なかった。
帰りの廊下は妙に静かだった。下校する生徒たちの靴音が、リノリウムの床に均等なリズムで反響している。誰も走らない。誰も叫ばない。整然とした退場。透は自分のアルカIDをスマホで確認した。信用スコアは変わっていない。今のところは。だがこのスコアがいつ、どんな理由で、誰の判断で下がるのか——それを知る手段は、透にはなかった。