第三駐車場は、旧市街の外れにあった。
午後十一時。透は自転車を停め、あたりを見回した。街灯が二本。アスファルトにひびが入っていて、隙間から雑草が生えている。駐車場のフェンスは錆びて、半分倒れかけている。車は一台もない。
長袖のシャツにジーンズ。スニーカー。指定された服装。リュックには水筒とタオルを入れてきた。スマホを見る。二十三時〇一分。
足音が聞こえた。
駐車場の奥から、男が歩いてきた。長身。黒いコート。髪は短く、白髪が混じっている。三十代後半か四十前後。顔は暗くてよく見えないが、姿勢がいい。軍人のような。いや、重力に逆らわない、無駄のない歩き方だった。
「お前か」
低い声。電話と同じだ。
「はい。掲示板を見て」
「名前は」
「槙透です」
「槙。いい名前だ」何がいいのか分からない。「俺のことは飛羽と呼べ。仕事の説明をする」
飛羽は駐車場の隅に停めてあった軽バンの後部を開けた。中に道具が積まれていた。業務用の高圧洗浄機。バケツ。スクレーパー。塗料の缶。ローラー。マスキングテープ。
「壁の落書きを消す。使うのはスクレーパーと高圧洗浄機。上から塗料を重ねることもある。やり方は見せるから覚えろ。質問は作業しながら受ける」
簡潔だった。面接がないと言っていたのは本当だった。身分証も保険証も求められない。そういう仕事だ。まあいい。帰りたくなったら帰ればいい。
飛羽が軽バンを運転し、旧市街の路地に向かった。助手席に座る透の横を、深夜の槻ノ森が流れていった。閉まった商店。暗い住宅。信号が黄色の点滅に切り替わっている。車はほとんど通っていない。
「落書きは毎日増える」飛羽が言った。「消しても消しても新しいのが描かれる。イタチごっこだ」
「誰が描くんですか」
「いろいろだ。ガキのいたずら。政治的な主張。縄張りのマーキング。どれも消す。動機は問わない」
旧市街の細い路地に車を停めた。飛羽が道具を降ろし、ヘッドライト型の懐中電灯を透に渡した。
「つけろ」
壁を照らした。コンクリートの壁に、スプレーで描かれた落書きがあった。赤と黒。文字ではない。記号のような、模様のような。描いた人間に意味があったのかもしれないが、透には読めなかった。
「スクレーパーで表面を削る。力を入れすぎるな。壁ごと削れる」
飛羽が手本を見せた。スクレーパーの刃を壁に当て、一定の角度で滑らせる。塗料が薄く剥がれる。地味な作業だった。一平方メートルを削るのに十分以上かかる。
透も始めた。
最初は力加減が分からず、壁のコンクリートまで削ってしまった。飛羽が無言で角度を修正した。二十分後にはコツが掴めてきた。刃の角度、力の方向、手首の動き。単純だが集中力が要る。
深夜の路地で壁を削る。誰にも見られていない。誰にも話しかけられない。黙々と手を動かすだけ。
楽だった。
教室で空気を読むより、はるかに。
一時間が過ぎた。壁の落書きは半分ほど消えた。残りは高圧洗浄機で飛ばす。飛羽がホースを伸ばし、水圧を調整した。ゴォッという音とともに、水流が壁に叩きつけられる。塗料の残滓が飛沫と一緒に流れ落ちていく。
深夜一時。休憩。
透は水筒のお茶を飲みながら、路地の壁にもたれた。飛羽は軽バンの運転席に座り、缶コーヒーを開けた。
「次の現場は三ブロック先だ。終わったら移動する」
「はい」
「体力は持つか」
「大丈夫です」
嘘ではなかった。体は疲れているが、頭は楽だった。考えなくていい。壁を削る。水で流す。塗る。それだけだ。
二つ目の現場に移動した。
旧市街の外縁、新しい商業ビルが並び始めるエリアとの境界線。古い建物と新しい建物が混在している通り。深夜二時だが、コンビニの明かりが路面を照らしていて、時折車が通る。
壁の落書きは、一つ目の現場より大きかった。コンクリートのブロック塀に、赤いスプレーで大きな文字が書かれている。
「目を覚ませ」
飛羽が落書きを見て、一秒だけ立ち止まった。それから、いつも通りスクレーパーを取り出した。
「これは、政治的なやつですか」
「さあな。消す」
作業を始めた。透がスクレーパーで表面を削り、飛羽が高圧洗浄機の準備をする。分担が自然にできていた。
深夜二時十五分。
耳鳴りが来た。
キーン、という高周波のノイズ。いつもの耳鳴り。教室で感じるのと同じ種類の音だが、強さが違った。音量が違った。
教室のときは蚊の羽音くらいの微かな音だった。今のは、目覚まし時計を耳元で鳴らされたような、頭蓋骨の内側を震わせるような、鋭い音。
透はスクレーパーを落とした。金属が路面に当たって甲高い音を立てた。
「……っ」
両手で耳を押さえた。押さえても消えない。当然だ。この音は外から来ていない。耳の中から。いや、頭の中から鳴っている。
「おい。どうした」
飛羽の声が遠くに聞こえる。耳鳴りのせいで、他の音が全部遠くなる。
そのとき、通りの向こう側で——異様な光景が始まった。
深夜二時だというのに、人が歩いていた。五人。六人。七人。コンビニの前、路上、歩道。年齢も性別もバラバラだ。サラリーマン風の男。ジャージ姿の中年女性。パーカーの若い男。スーツの女性。配達員。学生風の二人組。
全員が、同時にスマートフォンを取り出した。
文字通り、同時に。示し合わせたのではない。各々が別の場所を歩いていた人間が、同じ瞬間に、反射のようにポケットやバッグからスマホを取り出し、画面を見た。
そして、全員が同じ方向を向いた。
北。通りの北側。商業ビルの方向。何があるのか、透の位置からは見えない。だが七人の人間が、全員同じ方向を向いて、スマホの画面を見つめている。
目が光っていた。
スマホの画面の光が顔を照らしているだけだ。それだけのはずだ。だが、七人の顔が同じ角度で同じ光に照らされて、同じ表情、無表情で同じ方向を見つめている光景は、深夜の路上で見ると、人間に見えなかった。
耳鳴りがさらに強くなった。頭が割れそうだ。視界が揺れる。
「立て」
飛羽の声が、耳鳴りを突き抜けて聞こえた。
肩を掴まれていた。飛羽の手だ。強い力。
「立てるか」
「耳が……耳鳴りが……」
「知ってる。お前に聞こえているのは『それ』の音だ」
飛羽は通りの向こう側を見ていた。七人のスマホゾンビを。その目には驚きがなかった。見慣れている目だった。
「あの人たち……何が……」
「情報災害だ。局所的なやつ。たぶん、どこかのSNSで急拡散した投稿が、このエリアの通行人のフィードに同時にプッシュされた。AIがタイミングを揃えたんだ。同じ瞬間に、同じ情報を、同じ感情負荷で届ける。結果、全員が同じ反応を返す。同期する。群れになる」
飛羽の口調は淡々としていた。壁の落書きの説明をするのと同じトーンだった。
「情報災害って」
「認知汚染。人間の脳がハックされている状態だ。ウイルスじゃない。情報のタイミングと文脈と感情的フレーミングを最適化することで、人間の判断力を一時的にオーバーライドする。洗脳とは違う。洗脳は個人を狙う。こっちは空間を汚染する。その場にいる人間全員が、同時に同じ方向を向く」
七人が、歩き始めた。全員、同じ方向に。足取りが揃っている。示し合わせたのではなく、自然に、あるいは不自然に自然に、足並みが合っている。
「放っておくと拡散する。今は七人だが、この七人がそれぞれのSNSでリアクションを返すと、次の波が来る。近隣の住民が起きてスマホを見る。その次は」
「止められるんですか」
「止める。それが俺の仕事だ。落書き消しじゃなく、こっちが本業」
飛羽は軽バンに戻り、道具箱から何かを取り出した。ゴムボール。テニスボールほどの大きさの黒いゴムボール。
「何を」
「見てろ」
飛羽は通りに出た。七人のスマホゾンビが歩いていく方向と直交する路地に入り、商業ビルの壁に向かってゴムボールを投げた。
壁に当たったボールが跳ね返り、路面に落ち、転がり、排水溝の蓋に当たって甲高い金属音を立てた。
カンッ。
乾いた音が深夜の通りに響いた。
七人のうち、三人が足を止めた。スマホから目を上げ、音のした方向を見た。音に反応した。目が戻っていた。スマホの画面の光ではなく、街灯の光に照らされた、普通の人間の目。
「な」
「予測できない物理的な刺激を入れる。AIはSNSの情報フローを制御できるが、路面を転がるゴムボールの軌道は予測できない。人間の脳が『予想外の物理現象』を処理すると、情報災害のフレームが一瞬途切れる。その一瞬で、自分の足で立ち直る人間がいる。いない人間もいる」
三人は立ち止まり、困惑した顔で周囲を見回し、自分がなぜこんな時間に路上にいるのか分からないといった様子で、歩き去った。各々、別の方向に。同期が解けた。
残りの四人は、まだ同じ方向に歩いている。
「四人残った」
「全員は救えない。三人止めたら上出来だ。残りは自然に減衰する。局所的な情報災害は持続時間が短い。三十分もすれば、AIの注意が別のエリアに移る」
飛羽は通りに戻ってきた。ゴムボールをポケットにしまった。
透の耳鳴りは弱くなっていた。三人が同期を解いた瞬間に、ノイズが一段下がった。まだ鳴っているが、さっきほどではない。
「お前の耳鳴り。今、少し楽になっただろう」
「……はい」
「お前は感じられるんだ。認知汚染の密度を。耳鳴りとして。普通の人間には感じられない。だから気づかない。気づかないまま、スマホを取り出して、同じ方向を向いて、同じ投稿にいいねを押す。お前だけが、それを苦痛として受け取る」
飛羽は透を見た。
暗い路上で、街灯の光がコートの肩に落ちている。飛羽の目は黒く、深く、何かを計っていた。
「炭鉱のカナリアだ」
「……は?」
「昔、炭鉱ではカナリアを籠に入れて坑道に持ち込んだ。有毒ガスが充満すると、人間より先にカナリアが倒れる。カナリアが鳴き止んだら、逃げろという合図だ。お前の耳鳴りは逆のカナリアだ。汚染が来ると鳴る。鳴っている間は、そこが危険だということ」
透は黙っていた。
耳の奥で、まだ微かにキーンという音が鳴っている。残響。四人のスマホゾンビが歩き去った方向から、かすかに感じる。
「落書き消しの仕事は」
「ある。嘘じゃない。壁の落書きも消す。だが、俺の本業はこっちだ。目に見えない落書きを消す仕事。お前が欲しい」
「俺を?」
「カナリアとして。情報災害がどこで起きているかを感知するセンサーが、俺には必要だ。お前は戦わなくていい。ただ、耳鳴りがしたら教えろ。それだけでいい」
透は飛羽の顔を見た。
深夜二時半。旧市街の路地。落書きが半分消えた壁の前で、見知らぬ男にカナリアになれと言われている。
断るのが正常な判断だ。怪しい。完全に怪しい。情報災害とか認知汚染とか、まともな大人の語彙ではない。
でも。
さっき見た光景は、本物だった。
七人が同時にスマホを取り出し、同じ方向を向いた。あれは透の幻覚ではない。飛羽がゴムボールを投げて、三人が正気に戻った。あれも現実だ。
そして、耳鳴り。
教室で感じていたあの音が、ストレスではなく、何かの信号だったのだとしたら。
みんなが同じ方向を向いて笑っているとき、耳の奥が鳴っていたのは。
「……時給は出ますか」
「出る。落書き消しと同じ。二千二百円」
「じゃあ、やります」
飛羽は笑わなかった。頷いただけだった。
「残りの壁を片付けるぞ。仕事は仕事だ」
透はスクレーパーを拾い上げた。
「目を覚ませ」と書かれた落書きの最後の一画を、刃で削った。赤い塗料がコンクリートの粉と一緒に崩れ落ちた。
壁がきれいになった。
耳鳴りは——まだ、少しだけ残っていた。