ブルー・ノートの二階。午前零時。
ハルカがタブレットの画面を見せた。帯域ログのグラフ。深夜三時台に鋭いスパイクが立っている。
「これが毎晩。三ヶ月分のデータ。深夜三時から五時の間に、データセンター内のサーバーラックSR-017が高帯域通信を行っている。外部とは繋がっていない。内部で自己完結している」
飛羽がグラフを見ている。表情は変わらない。いつもの無表情。
「テスト環境と表示されているが、テスト環境が毎晩二時間の処理を三ヶ月続けることはない。これは本番稼働だ。少なくとも準本番」
「何が動いている」
「それが」
ハルカがタブレットを置いた。
「今日の昼、食堂で正社員の会話を聞いた。『調律師の最適化が完了すれば、次のフェーズに移行する』と」
「調律師」
「チューナー。レコメンドエンジンの上位AIらしい。ユーザーの行動を予測するんじゃなくて、行動パターンそのものを最適化する。自然に、ストレスなく、最適な行動を選ばせるようにガイドする」
「ガイド」
「洗脳、って言い換えてもいいかもしれない」
飛羽が——動きを止めた。
一瞬。コーヒーカップを口に運ぶ動作が、途中で止まった。目がどこかを見ていた。ここではない場所。過去か。記憶か。
三秒。
カップを口に運んだ。飲んだ。普通に。だが止まった。
透はそれを見た。見逃さなかった。
「飛羽さん。知ってますか。調律師のこと」
「知らない」
嘘だ。
透にはそう思えた。飛羽の嘘は上手い。だが動きが止まった三秒間は嘘では埋められない。
ハルカが続けた。
「SR-017の通信パターンを解析した限り、調律師はまだ本格稼働していない。学習フェーズ。データを食べて、モデルを精緻化している段階。本格稼働したら」
「市民の行動パターンそのものが変わる」
「そう。レコメンドで見せたい情報を見せるのは初級。調律師は見たいもの自体を変える。『何を好むか』ではなく、『何を好むべきか』を設計する」
透の耳が鳴った。低い音。ブルー・ノートの中にいるのに。普段はこの店では鳴らない。ここは安全な場所のはずだ。
だが「調律師」の話を聞いている間だけ、鳴っている。
言葉が認知に触れている。名前そのものが汚染の入り口なのか。
「飛羽さん。もう一つ聞いていいですか」
「何だ」
「さっき名前を聞いたとき、動きが止まりましたよね」
ハルカが透を見た。「よく見てるね」という目。
飛羽はコーヒーカップをテーブルに置いた。
「……チューナーという名前を最初に使ったのは、俺だ」
沈黙。
ブルー・ノートの一階から、ジャズのレコードが微かに聞こえている。マイルス・デイヴィス。だと思う。透には分からない。
「俺がエンリングにいた頃、初期開発チームにいた頃、ユーザー行動の最適化モデルを理論的に研究していた。そのときにつけたコードネームが『チューナー』だった。実装はしなかった。理論段階で俺が止めた」
「止めた?」
「危険だったからだ。行動パターンの最適化は個人の自由意志の否定と紙一重だ。やるべきではないと判断した。そしてエンリングを辞めた」
「辞めたのはそれが理由ですか」
「理由の一つだ」
飛羽が立ち上がった。窓の外を見た。槻ノ森の夜景。住宅街の灯り。コンビニの看板。
「俺が止めても誰かが続けた。俺が名づけた『チューナー』を、俺がいなくなった後も、開発し続けた」
「飛羽さんの元同僚が?」
「……その話はまだ早い」
飛羽が透を見た。いつもの無表情に戻っていた。だが目の奥に何かが燃えていた。怒りか。後悔か。
「今は調律師の本格稼働を止めることに集中する。本格稼働すれば、この街の人間は、自分が何を考えているのか、自分では分からなくなる」
「それって」
「考えることを止める。考えなくても快適だから。快適なファシズムだ」
快適なファシズム。
透は帰り道の自転車の上で、その言葉を反芻した。
考えなくても快適。選ばなくても正解。迷わなくても安全。
それは事なかれ主義の完成形だ。透がずっとやってきたことの、究極の姿。
AIが透の代わりに考えてくれる。透は何も選ばなくていい。何も迷わなくていい。自動販売機のまま、永遠に。
それが快適。
背筋が寒くなった。十月の夜風のせいだけではない。
耳鳴りがまだ鳴っている。低く。
鳴っている間はまだ、自分で考えている。
鳴らなくなったら——終わりだ。