小説置き場

第18話「サーバールームの夜想曲」

3,794文字 約8分

九時。出勤。

 ハルカはIDカードを首から下げて、エンリング槻ノ森データセンターの正面ゲートを通った。指紋認証。虹彩認証。ICカードのタッチ。三重のセキュリティ。

 派遣社員のハルカに与えられた区画は、サーバールームの手前にある監視フロア。温度管理、電力負荷、ネットワーク帯域の監視。画面を見て数字を確認して、異常があれば報告する。

 退屈な仕事だ。表向きは。

「おはようございます」

 隣の席の白石が声をかけてきた。正社員。三十代前半。真面目。規則に忠実。ハルカの倍の年収をもらっている。たぶん。

「おはようございます」

 ハルカは笑顔で返した。派遣社員の笑顔。波風を立てない笑顔。

 午前中はルーティン。サーバーの温度ログ確認。電力消費のグラフ確認。異常値チェック。全て正常。毎日正常。三ヶ月間、一度も異常が出たことがない。

 この「正常」が正常ではない。

 サーバーの電力消費パターン。ハルカは毎日記録している。公式の報告書とは別に。個人のメモとして。

 パターンに波がある。二十四時間周期。深夜三時に消費が跳ね上がり、午前五時に落ちる。この時間帯はメンテナンスウィンドウだが、定期メンテナンスで消費がここまで上がることはない。

 何かが——深夜に動いている。

 昼休み。食堂。カレーライス。ハルカはいつもカレーを選ぶ。と見せかけて、今日は牛丼にした。理由はない。不合理の訓練。透の影響だ。

 食堂の隅で食べていると、二つ先のテーブルで正社員が話しているのが聞こえた。

「チューナーの最適化が完了すれば、次のフェーズに」

 チューナー。

 ハルカの手が止まった。牛丼の箸が空中で固まった。

「レコメンドの精度が桁違いになるらしいよ。ユーザーの行動を予測するんじゃなくて、行動パターンそのものを最適化するって」

「最適化って何。ユーザーの行動を変えるってこと?」

「いや、変えるっていうか、自然に最適な行動を選ぶようにガイドする、みたいな。ストレスの軽減とか、犯罪予防とか」

「すごいね。それができたら」

 会話が聞こえなくなった。他のテーブルの雑音に消された。

 チューナー。調律師。

 ハルカは牛丼を食べ終えた。味は覚えていない。

 午後。デスクに戻った。監視画面。正常値。

 右手でマウスを動かしながら、左手でスマートフォンにメモを打った。

 「調律師。正社員の会話で確認。レコメンドの上位AI。行動パターンの最適化。次のフェーズ。開発段階は不明。テスト中の可能性あり」

 深夜三時の電力消費の異常値。調律師のテスト稼働か。

 午後三時。トイレ休憩。個室に入って、スマートフォンでデータベースのアクセスログを確認した。派遣社員に与えられた権限では、サーバールームの内部データには触れない。だが監視フロアのネットワーク帯域ログからは、「どこのサーバーが重い通信をしているか」が分かる。

 深夜三時台に高帯域通信を行っているサーバーラック。番号はSR-017。

 SR-017。ハルカの監視画面では「テスト環境」と表示されている。だがテスト環境が毎晩深夜に高帯域通信をする理由がない。

 この通信の先は外部ではなく、内部。データセンター内の別のラックに向けて通信している。自己完結型の処理。外部には何も出さない。

 調律師は外を見ていない。中を見ている。データセンター内で自己学習を続けている。

 五時。退勤。

 IDカードを返却し、正面ゲートを出た。秋の空気が冷たかった。

 駅まで歩く。槻ノ森駅。電車は混んでいない。この街はラッシュが穏やかだ。

 電車の中で、スマートフォンを取り出した。エンリングのSNSアプリを開いた。タイムライン。レコメンドされた投稿。犬の動画。料理のレシピ。新作コスメのレビュー。

 全部ハルカが好みそうなものだ。レコメンドエンジンがハルカの嗜好を学習して、ハルカが見たいものを表示している。

 これが「レコメンド」。

 「調律師」はその上にいる。見たいものを見せるのではなく、見たいもの自体を変える。

 ハルカはアプリを閉じた。

 ブルー・ノートに行く。飛羽に報告する。「調律師」の名前と、深夜の異常電力消費と、SR-017。

 棒付きキャンディを鞄から出した。イチゴ味。歩きながら舐める。

 昼は派遣社員。夜は情報屋。

 どちらが本当の自分かなんて、もう考えていない。どちらも本当だ。

 ただ——昼の顔で笑っている時間が、少しずつ辛くなっている。