小説置き場

第17話「ファントムノイズの適応」

3,940文字 約8分

また鳴った。

 午後十一時。自室のベッドで本を読んでいた。高い周波数。キーンではなく、もっと鋭い。針で鼓膜を突くような音。恐怖ベースの同期。EP013で記録した音と似ているが、違う。

 スマートフォンが震えた。飛羽から。

 『出ろ。南御影台三丁目。前回と同系統。急げ』

 自転車を飛ばした。十分。南御影台のコインランドリー付近。

 飛羽が路地の角で待っていた。黒いジャケット。手に小型のスピーカー装置を持っている。

「状況は」

「また『不審者通報』だ。SNSに一斉投稿が始まっている。住民が『家の前に不審者がいる』と投稿し合っている。不審者は存在しない。レコメンドエンジンが防犯系コンテンツを集中プッシュして、恐怖の同期が起きている」

「前回と同じ」

「同じパターン。だが」

 飛羽がスピーカー装置を操作した。低周波のノイズを出す。前回、これで認知汚染パターンを物理的に撹乱した。

 五秒。十秒。

「効いてない」

「効いてないな」

 飛羽の声が平坦だった。焦りはない。だが想定外ではある。

「AIが学習してる。前回の介入パターンを記録して、同じ手法に対する耐性をつけている。低周波の撹乱に対して、認知汚染のパラメータを変えてきた」

「パラメータを?」

「前回は視覚ベースの同期だった。SNSの画像投稿が連鎖して、視覚から認知を汚染していた。今回は音声ベースだ。SNSの音声メッセージ機能を使って、住民同士が『不審者を見た』と音声で報告し合っている。音声は文字より感情が伝播しやすい。俺のスピーカーで視覚系の撹乱をしても音声系には効かない」

 透は耳を澄ませた。

 住宅街の窓から声が漏れている。スマートフォンのスピーカーから流れる声。「家の前に誰かいる」「うちもです」「怖い」「警察に電話しました」。

 声が連鎖している。家から家へ。窓から窓へ。

「飛羽さん。音声ベースなら、音声で撹乱すればいいのでは」

「対抗の音を出すことは考えた。だが、どんな音を出してもAIは次に学習する。同じ手は二度使えない」

「同じ手じゃなければ」

 透は考えた。

 不合理の授業。「前回と違うことをすればいい。不合理に」。

「飛羽さん。あの家の、二軒先の家に犬がいますよね」

「犬?」

「庭に犬小屋がある。さっき通ったとき見えた」

「犬がどうした」

「犬に吠えさせたら」

 飛羽が透を見た。

「犬の吠え声は人間の声じゃない。AIは人間の音声パターンで認知汚染を設計している。犬の声はパラメータに入っていない」

「犬の吠え声は恐怖の反応を引き出すことがある。でもそれは認知汚染の恐怖とは別の種類の恐怖だ。犬に吠えられた恐怖はAIの設計した恐怖のパターンを上書きする。同期が崩れる」

 飛羽が三秒黙った。

「……アナログすぎるだろ」

「不合理って、そういうことじゃないですか」

 飛羽が薄く笑った。初めて見る笑い方だった。

「やってみろ。犬をどうやって吠えさせる」

「庭に近づけば吠えます。番犬なら」

「行け。俺はスピーカーで最低限の撹乱を続ける。犬が吠えたら、そこを起点にして認知の連鎖を切る」

 透は走った。二軒先。塀の向こうに犬小屋がある。大型犬。ゴールデンレトリバーに見えた。暗くてよく分からない。

 塀に近づいた。

 犬が顔を上げた。透を見た。

 吠えた。

 ワン。ワンワンワン。

 大きい。住宅街に響き渡る。窓から顔を出す住人がいた。犬の吠え声に引きずられてスマートフォンから顔を上げた。

 隣の家でも犬が吠え始めた。連鎖。犬の吠え声の連鎖。

 住民たちが窓の外を見た。犬が吠えている。不審者は見えない。犬は何に吠えている?

 意識がスマートフォンから外れた。画面の中の「不審者」から、窓の外の「犬」に注意が移った。

 透の耳鳴りが弱くなった。高い周波数が低くなっていく。恐怖の同期が崩れていく。

 三分後。投稿の連鎖が止まった。ハルカが後で確認した。「投稿頻度が急激に減少。犬の吠え声の直後から」。

 路地裏で合流した。飛羽が透を見ていた。

「犬か」

「犬です」

「AIは犬を予測しなかった」

「犬は不合理ですから」

 飛羽がポケットからキャンディを出した。棒付き。透にも一本差し出した。

「合格だ」

 透はキャンディを受け取った。レモン味。甘酸っぱい。

 午前一時。自転車で帰路についた。

 住宅街は静かだった。犬ももう吠えていない。

 不合理の授業。宿題の答えが——犬になるとは思わなかった。