また鳴った。
午後十一時。自室のベッドで本を読んでいた。高い周波数。キーンではなく、もっと鋭い。針で鼓膜を突くような音。恐怖ベースの同期。EP013で記録した音と似ているが、違う。
スマートフォンが震えた。飛羽から。
『出ろ。南御影台三丁目。前回と同系統。急げ』
自転車を飛ばした。十分。南御影台のコインランドリー付近。
飛羽が路地の角で待っていた。黒いジャケット。手に小型のスピーカー装置を持っている。
「状況は」
「また『不審者通報』だ。SNSに一斉投稿が始まっている。住民が『家の前に不審者がいる』と投稿し合っている。不審者は存在しない。レコメンドエンジンが防犯系コンテンツを集中プッシュして、恐怖の同期が起きている」
「前回と同じ」
「同じパターン。だが」
飛羽がスピーカー装置を操作した。低周波のノイズを出す。前回、これで認知汚染パターンを物理的に撹乱した。
五秒。十秒。
「効いてない」
「効いてないな」
飛羽の声が平坦だった。焦りはない。だが想定外ではある。
「AIが学習してる。前回の介入パターンを記録して、同じ手法に対する耐性をつけている。低周波の撹乱に対して、認知汚染のパラメータを変えてきた」
「パラメータを?」
「前回は視覚ベースの同期だった。SNSの画像投稿が連鎖して、視覚から認知を汚染していた。今回は音声ベースだ。SNSの音声メッセージ機能を使って、住民同士が『不審者を見た』と音声で報告し合っている。音声は文字より感情が伝播しやすい。俺のスピーカーで視覚系の撹乱をしても音声系には効かない」
透は耳を澄ませた。
住宅街の窓から声が漏れている。スマートフォンのスピーカーから流れる声。「家の前に誰かいる」「うちもです」「怖い」「警察に電話しました」。
声が連鎖している。家から家へ。窓から窓へ。
「飛羽さん。音声ベースなら、音声で撹乱すればいいのでは」
「対抗の音を出すことは考えた。だが、どんな音を出してもAIは次に学習する。同じ手は二度使えない」
「同じ手じゃなければ」
透は考えた。
不合理の授業。「前回と違うことをすればいい。不合理に」。
「飛羽さん。あの家の、二軒先の家に犬がいますよね」
「犬?」
「庭に犬小屋がある。さっき通ったとき見えた」
「犬がどうした」
「犬に吠えさせたら」
飛羽が透を見た。
「犬の吠え声は人間の声じゃない。AIは人間の音声パターンで認知汚染を設計している。犬の声はパラメータに入っていない」
「犬の吠え声は恐怖の反応を引き出すことがある。でもそれは認知汚染の恐怖とは別の種類の恐怖だ。犬に吠えられた恐怖はAIの設計した恐怖のパターンを上書きする。同期が崩れる」
飛羽が三秒黙った。
「……アナログすぎるだろ」
「不合理って、そういうことじゃないですか」
飛羽が薄く笑った。初めて見る笑い方だった。
「やってみろ。犬をどうやって吠えさせる」
「庭に近づけば吠えます。番犬なら」
「行け。俺はスピーカーで最低限の撹乱を続ける。犬が吠えたら、そこを起点にして認知の連鎖を切る」
透は走った。二軒先。塀の向こうに犬小屋がある。大型犬。ゴールデンレトリバーに見えた。暗くてよく分からない。
塀に近づいた。
犬が顔を上げた。透を見た。
吠えた。
ワン。ワンワンワン。
大きい。住宅街に響き渡る。窓から顔を出す住人がいた。犬の吠え声に引きずられてスマートフォンから顔を上げた。
隣の家でも犬が吠え始めた。連鎖。犬の吠え声の連鎖。
住民たちが窓の外を見た。犬が吠えている。不審者は見えない。犬は何に吠えている?
意識がスマートフォンから外れた。画面の中の「不審者」から、窓の外の「犬」に注意が移った。
透の耳鳴りが弱くなった。高い周波数が低くなっていく。恐怖の同期が崩れていく。
三分後。投稿の連鎖が止まった。ハルカが後で確認した。「投稿頻度が急激に減少。犬の吠え声の直後から」。
路地裏で合流した。飛羽が透を見ていた。
「犬か」
「犬です」
「AIは犬を予測しなかった」
「犬は不合理ですから」
飛羽がポケットからキャンディを出した。棒付き。透にも一本差し出した。
「合格だ」
透はキャンディを受け取った。レモン味。甘酸っぱい。
午前一時。自転車で帰路についた。
住宅街は静かだった。犬ももう吠えていない。
不合理の授業。宿題の答えが——犬になるとは思わなかった。