小説置き場

第16話「ヒューリスティクスの死角」

3,921文字 約8分

ブルー・ノートの二階。午前一時。

 飛羽がホワイトボード、というか壁にガムテープで貼った模造紙にマーカーで書いている。

 「合理的な人間 = 予測可能な人間 = 操作可能な人間」

 透はパイプ椅子に座って、缶コーヒーを飲んでいた。微糖。一階から店主が差し入れてくれた。午前一時に深夜営業する喫茶店の店主は、何も聞かない。ただコーヒーを出す。

「今から行動経済学の基礎をやる。一時間で終わらせる」

「学校の授業より長いですね」

「学校の授業より役に立つ」

 反論できない。

「いいか。AIが人間を予測するとき、使っているのは二つだ。一つはデータ。お前の検索履歴、購買履歴、移動パターン、SNSのリアクション。これは過去の行動の記録だ」

「もう一つは」

「行動モデル。人間がどういう状況でどういう選択をするか。その統計的なパターン。経済学では『合理的行為者モデル』と呼ぶ。人間は常に自分にとって最も得な選択をする、という仮定」

「しないですよ。いつも合理的な選択なんて」

「しない。だがAIはそう仮定する。そして九割の場面で当たる。人間は思っている以上に予測可能だ。特に」

 飛羽がマーカーで模造紙に丸を描いた。丸の中に書いた。

 「事なかれ主義」

 透は缶コーヒーを置いた。

「事なかれ主義は、最も予測しやすい行動パターンだ。衝突を避ける。多数派に従う。目立たない選択をする。これはAIにとって楽勝だ。お前がどっちに動くか、百パーセント予測できる」

「……百パーセント」

「お前のスマホの使い方を見ろ。通知が来たら三秒以内に確認する。いいねは押さないが既読はつける。意見は言わないが流れは追う。これは事なかれ主義の典型的な行動パターンだ。AIはこれを見て、お前に何をレコメンドすれば良いか、完璧に予測している」

 透は自分のスマートフォンを見た。画面が暗い。通知は来ていない。午前一時だから当然だが。

「じゃあどうすればいいんですか。不合理に動けっていうのは」

「不合理に動けとは言わない。不合理に動ける人間になれ、と言っている」

「違いが分かりません」

「いつも不合理に動いたら、それも予測される。ランダムに見える行動もパターンを持つ。重要なのは、合理的にも不合理にも動ける人間であること。AIが予測できないのは、『どちらかを選ぶ人間』じゃなくて、『どちらを選ぶか分からない人間』だ」

 飛羽が模造紙にもう一つの丸を描いた。

 「不確実性 = 自由」

「不確実な人間は自由だ。予測できないから操作できない。操作できないからAIの汚染が効かない」

「俺に、不確実になれと」

「今のお前は確実すぎる。事なかれ主義で、空気を読んで、多数派に合わせる。自動販売機だ。金を入れればジュースが出てくる。俺はお前に、たまにジュースの代わりに石を出す自販機になってもらいたい」

「石を出す自販機って」

「壊れてるように見えるが、実は壊れていない。壊れているかどうか予測できない自販機。それがAIに対する最強の防御だ」

 透は考えた。

 事なかれ主義。空気を読むこと。波風を立てないこと。それが最も操作されやすい行動パターン。

 学校で透が「自動販売機」として生きてきたのは、楽だったからだ。考えなくていい。選ばなくていい。流れに合わせていれば衝突がない。

 でもそれはAIにとっても楽だ。

 透の行動を予測して、透に見せたいものを見せて、透にさせたい行動をさせる。透が空気を読むのは、AIが作った空気だったかもしれない。

「……気持ち悪い」

「気持ち悪いだろう。でもそれが現実だ。お前が昨日、昼飯に何を食べたか覚えてるか」

「カレー」

「なぜカレーを選んだ」

「食堂のメニューで、目についたから」

「目についた。食堂の券売機のメニュー配置は、過去の販売データに基づいて最適化されている。売りたいメニューが目につきやすい位置にある。お前はカレーを選んだのではない。カレーを選ばされた」

「それは言い過ぎでは」

「言い過ぎだ。だが方向性は正しい。お前が自分で選んだと思っていることの半分は、環境に選ばされている。環境を設計している人間がいる。それがAIだ」

 午前二時。講義は終わった。

 模造紙には走り書きが残った。「合理的=予測可能=操作可能」「不確実性=自由」「石を出す自販機」。

 飛羽が模造紙を丸めて、壁から剥がした。証拠を残さない。

「今日の宿題」

「宿題あるんですか」

「明日、学校で一つだけ、いつもと違うことをしろ。何でもいい。いつもと違う道で帰る。いつもと違うメニューを選ぶ。いつもと違う席に座る。何でもいい。ただし、理由なく」

「理由なく?」

「理由があったら合理的だ。理由がないから不合理だ。不合理な行動を一つだけ。それがお前の最初の訓練だ」

 ブルー・ノートを出た。午前二時の槻ノ森。街灯の光。自転車置き場に透の自転車がある。

 帰り道。いつものルート。

 ——いや。

 透は自転車のハンドルを左に切った。いつもは右に曲がる交差点を、左に曲がった。

 知らない道。住宅街の裏道。暗い。街灯が少ない。

 理由はない。

 ただ、左に曲がった。

 耳鳴りが微かに変わった。いつもの低い音ではなく、少しだけ高い。新しい音。

 知らない道の、知らない音。

 これが——不合理の第一歩なのかもしれない。