飛羽が「着いてこい」と言った。
夜十時。ブルー・ノートの裏口から出た。路地裏を抜けて、大学の北門に向かう。門は閉まっている。飛羽がフェンスの一部を押した。留め金が外れる。常連の出入り口らしい。
「大学の中ですか」
「地下だ」
キャンパスを横切った。校舎は暗い。街灯だけが点いている。正門とは反対側の建物の脇に、コンクリートの階段があった。半地下に降りる階段。鉄のドア。鍵はかかっていない。
中に入った。
旧共同溝。大学の地下に張り巡らされたインフラ用の通路。配管が天井を走っている。蛍光灯が何本かだけ点いている。残りは切れている。暗い。湿っている。
五十メートルほど歩いた先に、広い空間があった。
ボイラー室だったらしい。天井が高い。使われていない巨大なボイラーが壁際に錆びている。
人がいた。
七人。折りたたみ椅子に座っている。パイプテーブルの上にノートパソコンが二台。ランタンが三つ。暖色の光が空間を照らしている。
全員が透を見た。
「引力の連れ?」
最初に声をかけてきたのは、四十代くらいの男だった。坊主頭。革ジャン。目が鋭い。
「俺の弟子だ」
「弟子って。今どき弟子とか取るんだ」
「うるさい。紹介する。こいつは炭鉱のカナリア。本名は使うな」
「カナリアね。若いな」
「高校生だ」
七人の視線が透に集まった。好奇。警戒。同情。いくつかの感情が混ざっている。
「じゃ、紹介しておくか」
坊主頭の男が立ち上がった。
「俺は地雷原(マインフィールド)。元不動産屋。架空の物件情報で客を騙してたのがバレてアカウント停止。今は情報屋の端くれ」
隣の女性。三十代。髪を短く切っている。
「干潟(タイダル)。元看護師。SNSで医療デマの訂正記事を書いてたら、プラットフォームに荒らし認定されてアカウント凍結。以来、表のネットに戻れてない」
次。二十代の男。フードを被っている。
「電柱(デンチュウ)。見てるだけ。何もしない。何もできない。でもここにいていいって言われたから、いる」
次。五十代の女性。白髪交じり。落ち着いた声。
「蛍(ホタル)。元教師。教え子のSNSいじめを告発したら、学校とプラットフォームの両方から排除された。今は塾講師のバイトをしている」
次。三十代の男。眼鏡。神経質そう。
「手帳(テチョウ)。元公務員。内部告発をしようとして、やめた。やめたのに、やめたという記録がAIに残ってて、転職先が見つからない。記録が消えない」
次。二十代の女性。染めた髪。
「渡り鳥(マイグレーション)。三回引っ越した。引っ越すたびにレコメンドエンジンが『あなたにぴったりの街』を提案してくる。どこに行ってもアルゴリズムが追いかけてくる。逃げ場がない」
最後。十代の男子。透と同い年くらいに見えた。
「……ラジオ。元配信者。フォロワー三万。ある日突然、全動画が削除された。理由は今でも分からない」
七人。全員が通り名。本名は誰も名乗らない。
「通り名で呼び合うのは」
「安全のため。ここにいる人間の本名を知ったら、お前もリスクを背負う。知らなければ、捕まっても喋れない。知らないことが、ここでは防御になる」
飛羽が言った。
透は椅子に座った。パイプテーブルの端。ランタンの光が揺れている。
七人はシステムから弾かれた人間だった。アカウント停止。凍結。排除。記録の呪い。アルゴリズムの追跡。理由のない削除。
表の世界に居場所がない。昼間は何食わぬ顔で暮らしている。仕事をしている。学校に行っている。だが夜になるとここに来る。監視の死角。地下の共同溝。
「ここが夜の住人の集まり」
「大げさに言うな」
飛羽が否定した。
「ただの寄り合いだ。月に二回。情報を共有して、困ってることを話す。それだけ」
「それだけ?」
「それだけ。大きな組織じゃない。夜漏守(よもすがら)は互助組織だ。会費もない。規約もない。あるのはここにいる人間が、表に戻れなくなったとき、最低限の居場所があるということだけ」
蛍が透を見た。元教師の穏やかな目。
「カナリアくん。あなたはまだ表の世界にいるのね」
「はい」
「それなら、ここに来なくてもよかったのに」
「来たかったんです。いえ、飛羽さんに連れてこられたんですけど」
「連れてきたのは理由があるわ。引力はいつも理由がある」
飛羽がコーヒーを淹れていた。ブルー・ノートから持ってきたポットで。
「カナリアには、こちら側を見てもらう必要がある。表にいるうちに。表から落ちた後に初めて知るのでは遅い」
こちら側。
透は地雷原を見た。干潟を見た。電柱を見た。蛍を見た。手帳を見た。渡り鳥を見た。ラジオを見た。
全員が透と同じ世界に住んでいる。同じ街で。同じ空気を吸って。だが夜だけ、ここに来る。地下に。
アルカIDを登録した。SNS連携はしなかった。それだけの違い。透がこちら側に落ちるのはSNS連携を一つクリックするだけの距離。
「飛羽さん」
「何だ」
「僕は——こちら側の人間ですか」
「まだ決まってない。だが耳鳴りが鳴る時点で、完全に向こう側でもない」
ラジオ、十代の男子が、透の隣に座った。
「カナリアくんさ。耳鳴り、いつから?」
「一年くらい前から」
「俺、動画削除されたとき、すげえ耳鳴りした。三日間止まらなかった。あれ、何だったんだろうな」
「分からない。でも鳴るってことは、何かがおかしいんだと思う」
「おかしいのは俺たちか、世界か」
「……両方かも」
ラジオが笑った。十七歳の、乾いた笑い。
帰り道。大学のフェンスを越えて、路地裏を歩いた。
深夜十一時。街は静かだった。犬は吠えない。この街の犬は吠えない。
透の耳に耳鳴りはなかった。
地下にいる間、一度も鳴らなかった。あの場所は汚染されていない。監視の死角。アルゴリズムの圏外。
そこにいる人間たちはバラバラだった。
バラバラで、非同期で、通り名で呼び合って、月に二回だけ集まる。
それが健全だった。
帰宅。「ただいま」は言わなかった。母親は寝ている。
ベッドに入った。枕元のスマートフォン。ホーム画面にアルカIDのアイコン。青い丸の中の白い「A」。
透はアイコンを長押しした。ホーム画面から消した。アプリは消していない。フォルダの奥に移しただけ。
小さな抵抗。
でも——抵抗しない自動販売機でいるよりは、マシだと思った。