ホームルームの時間に、担任が配布物を配った。
A4のチラシ。「アルカID 学内サービスのご案内」。ロゴはシンプルなデザイン。青い丸の中に白い「A」。
「来月から、学校行事の出欠確認、図書室の予約、成績閲覧、保健室の利用記録。こうした学内サービスが、アルカIDに統合されます。まだ持っていない人は、今週中に登録してください」
クラスの反応。
「やっと! 出欠とかめんどくさかったし」
「図書室の予約もアプリでできるの? 神じゃん」
「成績もアルカIDで見れるの? 親にバレない?」
歓迎ムード。全員が歓迎している。便利になるから。紙の書類が減る。スマートフォン一つで済む。
透の耳に微かな音が鳴った。
キーン。弱い。教室の同調圧力レベル。だが質が違った。
いつもの同調圧力は、ぼんやりした低い圧迫感。空気が重くなるような。だが今回は鋭い。薄い。針のような周波数。
初めて聞く質感だった。
「槙くん、登録した?」
隣の席の女子が聞いてきた。スマートフォンの画面にアルカIDの登録フォームが開いている。
「まだ」
「早くしなよ。来月から使えないと不便だよ」
不便。使えないと不便。使わないと居場所がなくなる。
透はチラシを裏返した。小さな文字。利用規約の要約。
「アルカIDは、利用者の行動データを匿名化した上で、サービス改善および連携パートナーへの情報提供に使用する場合があります」
連携パートナー。
透はスマートフォンでアルカIDの公式サイトを開いた。FAQ。「連携パートナーとは?」
「アルカIDは、エンリング株式会社が提供する統合電子決済・認証基盤です。連携パートナーには、教育機関、公共交通機関、商業施設等が含まれます」
エンリング。
炎上レビューを増幅した。不審者パニックを誘発した。そのエンリングが学校の中に入ってくる。
昼休み。屋上。透は一人でいた。
スマートフォンを見た。アルカIDの登録フォーム。名前、生年月日、学籍番号、メールアドレス。
SNSアカウントの連携。任意。だが連携すると「学内コミュニティ機能」が使える。学年のグループチャット。部活動の連絡。先生への質問フォーム。
「任意」と書いてある。だが全員が連携すれば、連携しない人間は排除される。情報が来ない。連絡が来ない。グループチャットに入れない。
任意という名の強制。
耳鳴りが少しだけ強くなった。針の周波数。
「透?」
屋上のドアが開いた。クラスメイトの田中。
「お前もまだ登録してないの? 先生が全員登録しろって」
「今やる」
「早くしろよ。来月の校外学習の出欠、アルカIDでしか取らないってさ」
田中が去った。
透はスマートフォンを見つめた。
登録しなければ、校外学習の出欠が取れない。登録すれば、エンリングに自分の学校生活のデータが渡る。行動パターン。成績。保健室の利用回数。SNSの投稿。
飛羽の言葉が蘇った。「合理的に動く人間は100%予測できる」。
全員がアルカIDを使えば——全員の行動が記録される。記録されれば予測できる。予測できれば操作できる。
でも登録しなければ「普通」から外れる。
透は「普通」でいたかった。事なかれ主義の、目立たない高校生でいたかった。
でも「普通」を維持するために、自分のデータを差し出すのか。
耳鳴りが止まらない。
結局、登録した。名前。生年月日。学籍番号。メールアドレス。
SNS連携はしなかった。「任意」のままにした。小さな抵抗。でも、それだけ。
放課後。ブルー・ノートに行った。
飛羽がカウンターにいた。コーヒーを飲んでいる。
「学校でアルカIDが導入された」
「知ってる」
「飛羽さんは、これ、来ると思ってましたか」
「思ってた。市内の学校への導入は、エンリングの中期計画に入っていた。ハルカが三ヶ月前に報告している」
「三ヶ月前。じゃあ」
「止められなかった。合法だ。学校が導入を決めた。保護者の同意も取っている。法的に問題ない」
「法的に問題ないけど」
「気持ち悪い。分かってる。だが気持ち悪さは法律じゃない。気持ち悪いと思える人間が少ないことが、本当の問題だ」
ハルカがカウンターの端で棒付きキャンディを舐めていた。
「透くん。SNS連携は?」
「しなかった」
「正解。連携したら、エンリングのプロファイリングに学校データが加わる。耳鳴りの原因を自分から提供するようなもん」
「でも周りの全員が連携してる」
「全員が連携しているのに一人だけしていない。それ自体がデータになるわ。『連携を拒否した生徒』というラベルがつく。目立つ」
目立つ。透が最も避けたいこと。
「どうすればいいんですか」
飛羽がコーヒーカップを置いた。
「何もしなくていい。今は。アルカIDは入り口にすぎない。本体はまだ来ていない」
「本体?」
「そのうち分かる」
透はコーヒーを飲んだ。苦い。砂糖を入れ忘れた。
帰り道。スマートフォンにアルカIDのアプリが入っている。ホーム画面の端に。青い丸の中の白い「A」。
便利。安全。快適。
耳には——まだ針が刺さっている。