小説置き場

第14話「認証基盤の侵食」

2,009文字 約5分

ホームルームの時間に、担任が配布物を配った。

 A4のチラシ。「アルカID 学内サービスのご案内」。ロゴはシンプルなデザイン。青い丸の中に白い「A」。

「来月から、学校行事の出欠確認、図書室の予約、成績閲覧、保健室の利用記録。こうした学内サービスが、アルカIDに統合されます。まだ持っていない人は、今週中に登録してください」

 クラスの反応。

「やっと! 出欠とかめんどくさかったし」

「図書室の予約もアプリでできるの? 神じゃん」

「成績もアルカIDで見れるの? 親にバレない?」

 歓迎ムード。全員が歓迎している。便利になるから。紙の書類が減る。スマートフォン一つで済む。

 透の耳に微かな音が鳴った。

 キーン。弱い。教室の同調圧力レベル。だが質が違った。

 いつもの同調圧力は、ぼんやりした低い圧迫感。空気が重くなるような。だが今回は鋭い。薄い。針のような周波数。

 初めて聞く質感だった。

「槙くん、登録した?」

 隣の席の女子が聞いてきた。スマートフォンの画面にアルカIDの登録フォームが開いている。

「まだ」

「早くしなよ。来月から使えないと不便だよ」

 不便。使えないと不便。使わないと居場所がなくなる。

 透はチラシを裏返した。小さな文字。利用規約の要約。

 「アルカIDは、利用者の行動データを匿名化した上で、サービス改善および連携パートナーへの情報提供に使用する場合があります」

 連携パートナー。

 透はスマートフォンでアルカIDの公式サイトを開いた。FAQ。「連携パートナーとは?」

 「アルカIDは、エンリング株式会社が提供する統合電子決済・認証基盤です。連携パートナーには、教育機関、公共交通機関、商業施設等が含まれます」

 エンリング。

 炎上レビューを増幅した。不審者パニックを誘発した。そのエンリングが学校の中に入ってくる。

 昼休み。屋上。透は一人でいた。

 スマートフォンを見た。アルカIDの登録フォーム。名前、生年月日、学籍番号、メールアドレス。

 SNSアカウントの連携。任意。だが連携すると「学内コミュニティ機能」が使える。学年のグループチャット。部活動の連絡。先生への質問フォーム。

「任意」と書いてある。だが全員が連携すれば、連携しない人間は排除される。情報が来ない。連絡が来ない。グループチャットに入れない。

 任意という名の強制。

 耳鳴りが少しだけ強くなった。針の周波数。

「透?」

 屋上のドアが開いた。クラスメイトの田中。

「お前もまだ登録してないの? 先生が全員登録しろって」

「今やる」

「早くしろよ。来月の校外学習の出欠、アルカIDでしか取らないってさ」

 田中が去った。

 透はスマートフォンを見つめた。

 登録しなければ、校外学習の出欠が取れない。登録すれば、エンリングに自分の学校生活のデータが渡る。行動パターン。成績。保健室の利用回数。SNSの投稿。

 飛羽の言葉が蘇った。「合理的に動く人間は100%予測できる」。

 全員がアルカIDを使えば——全員の行動が記録される。記録されれば予測できる。予測できれば操作できる。

 でも登録しなければ「普通」から外れる。

 透は「普通」でいたかった。事なかれ主義の、目立たない高校生でいたかった。

 でも「普通」を維持するために、自分のデータを差し出すのか。

 耳鳴りが止まらない。

 結局、登録した。名前。生年月日。学籍番号。メールアドレス。

 SNS連携はしなかった。「任意」のままにした。小さな抵抗。でも、それだけ。

 放課後。ブルー・ノートに行った。

 飛羽がカウンターにいた。コーヒーを飲んでいる。

「学校でアルカIDが導入された」

「知ってる」

「飛羽さんは、これ、来ると思ってましたか」

「思ってた。市内の学校への導入は、エンリングの中期計画に入っていた。ハルカが三ヶ月前に報告している」

「三ヶ月前。じゃあ」

「止められなかった。合法だ。学校が導入を決めた。保護者の同意も取っている。法的に問題ない」

「法的に問題ないけど」

「気持ち悪い。分かってる。だが気持ち悪さは法律じゃない。気持ち悪いと思える人間が少ないことが、本当の問題だ」

 ハルカがカウンターの端で棒付きキャンディを舐めていた。

「透くん。SNS連携は?」

「しなかった」

「正解。連携したら、エンリングのプロファイリングに学校データが加わる。耳鳴りの原因を自分から提供するようなもん」

「でも周りの全員が連携してる」

「全員が連携しているのに一人だけしていない。それ自体がデータになるわ。『連携を拒否した生徒』というラベルがつく。目立つ」

 目立つ。透が最も避けたいこと。

「どうすればいいんですか」

 飛羽がコーヒーカップを置いた。

「何もしなくていい。今は。アルカIDは入り口にすぎない。本体はまだ来ていない」

「本体?」

「そのうち分かる」

 透はコーヒーを飲んだ。苦い。砂糖を入れ忘れた。

 帰り道。スマートフォンにアルカIDのアプリが入っている。ホーム画面の端に。青い丸の中の白い「A」。

 便利。安全。快適。

 耳には——まだ針が刺さっている。