耳鳴りで目が覚めた。深夜一時、ベッドの中で枕元のスマートフォンが振動している。飛羽からのメッセージだった。
『出動。住宅街C地区。至急』
透は服を着替えた。母親の部屋のドアは閉まっている。妹の部屋も。静かだ。
家を出た。十月の深夜。冷たい。吐く息が白い。
耳鳴りが強い。
教室のレベルではない。キーンではなく、もっと鋭い。高い。金属を引っ掻くような音。頭の左側で鳴っている。
自転車で住宅街C地区に向かった。十分。途中から耳鳴りが加速した。近づくほど強くなる。
C地区。新興住宅地。三階建てのマンションと一戸建てが混在する、ごく普通の住宅街。
だが——窓に明かりがついている家が多すぎた。深夜一時なのに。
飛羽がマンションの裏手に立っていた。コートの下に音波装置を提げている。
「状況。三十分前からSNSで『不審者がいる』という投稿が集中している。C地区を中心に半径二百メートル。投稿数は百四十以上」
「不審者は」
「いない」
「いない?」
「いない。巡回した。人影もない。音もない。犬も吠えていない。不審者は存在しない。だが住民は全員、不審者がいると信じている」
ハルカのログが転送されてきた。スマートフォンの画面。
エンリングのSNSプラットフォーム上で、C地区の住民に対して防犯系コンテンツが集中的にプッシュされていた。「深夜の不審者対策」「あなたの地域の犯罪マップ」「防犯カメラの効果」。三十分の間に、十二本の防犯関連コンテンツ。
プッシュを受け取った住民が、窓の外を見た。暗い。静かだ。だが「不審者がいるかもしれない」という不安が刷り込まれている。
一人が投稿した。「なんか怖い。外に人影があったような」
いいねがついた。共感が広がった。「私も見た気がする」「確かに音がした」。
人影は存在しない。音もしていない。だが百四十人が「見た」「聞いた」と投稿している。
「恐怖の同期だ」
飛羽が言った。
「前回の炎上レビューは怒りの同期。今回は恐怖の同期。感情の種類が違う。お前の耳には、どう聞こえる」
「高い。前回のジリジリした低い音と違う。金属を引っ掻くような、鋭い」
「恐怖は高周波で来るか。怒りは低周波。データとして有用だ。記録しろ」
透はスマートフォンにメモした。「恐怖ベースの同期=高周波。金属質。鋭い。頭の左側」
「鎮圧方法は前回と同じですか」
「基本は同じ。音波装置で認知汚染パターンを物理的に撹乱する。だが」
飛羽が音波装置を取り出した。小型のスピーカーユニット。
「住宅街だ。前回の商店街とは違う。スピーカーの音を出したら」
「苦情が来る」
「苦情じゃ済まない。深夜一時に不協和音を鳴らしたら警察を呼ばれる。すでに不審者がいると信じている住民が、本物の騒音を聞いたらパニックになる」
「じゃあどうするんですか」
「分からん。だから呼んだ」
「俺に聞くんですか」
「お前は炭鉱のカナリアだ。異常を感知するのが仕事。だが感知だけじゃ不十分だ。感知した上で、どうするか考えろ」
透は住宅街を見回した。
窓に明かり。カーテンの隙間から外を窺う人影。スマートフォンの光が顔を照らしている。全員がSNSを見ている。全員が同じ恐怖を共有している。
同期を崩すには、同期と無関係な刺激を入れればいい。ゴムボール。音波。前回はそうだった。
でも今回は深夜の住宅街。大きな音は出せない。ゴムボールを投げる相手がいない。窓の向こうにいる人間に、物理的にアクセスする方法がない。
「飛羽さん。SNSの投稿を逆方向に使えませんか」
「逆方向?」
「住民がSNSで恐怖を共有してる。同じSNSで、恐怖と無関係な投稿を大量に流す。チラシと同じ原理。文脈をずらす」
「アナログじゃなくデジタルで?」
「深夜一時に紙は配れない。でもSNSならハルカに頼んで、C地区の住民のフィードに、防犯とは無関係のコンテンツを大量にプッシュしてもらう。猫の動画。料理のレシピ。お笑いの切り抜き。恐怖の文脈を、別のコンテンツで埋める」
飛羽が三秒黙った。
「……それは、AIの手口と同じだ」
「同じです。でも目的が違う。AIは恐怖を注入した。俺たちは恐怖を上書きする」
「手段が同じで目的が違う。それは正当化になるか?」
「分かりません。でも今夜、百四十人がパニックになるのと、猫の動画を見て落ち着くのと、どっちがマシですか」
飛羽がハルカに電話した。
「ハルカ。C地区のフィードに、カテゴリ無関係のコンテンツを百本、一斉プッシュできるか。猫。料理。何でもいい。五分以内に」
ハルカの返答は聞こえなかったが、飛羽が頷いた。
「やれるそうだ。坊主、お前の提案を試す。結果は知らん」
五分後。
透の耳鳴りが変わった。
高周波がぶれた。鋭い金属音が、不規則に途切れ始めた。同期が崩れている。
窓の明かりが、一つ、二つと消え始めた。スマートフォンの光も消えていく。住民がSNSを閉じて、ベッドに戻っている。
十五分後。C地区は静かになった。深夜一時十五分の、本来の静けさ。
「止まった」
「止まったか。だが気持ちは悪いな」
「気持ち悪い?」
「AIと同じ手段を使った。人間のフィードを操作して、感情を誘導した。目的が違うから許されると言い切れるか」
言い切れない。透にも分かっていた。
「でも今夜はこれしかなかった」
「ああ。今夜はこれしかなかった。次はもっとマシな方法を考えろ」
帰り道。自転車を漕ぎながら、透は耳鳴りの記録を振り返った。
恐怖=高周波。怒り=低周波。同期が崩れるときは周波数がぶれる。不規則になる。
非同期。同期の反対。バラバラであること。
バラバラは健全だ。百四十人が同じ恐怖を共有しているのは病気。百四十人がそれぞれ別のことを考えているのが普通。
帰宅。「ただいま」は言わなかった。全員寝ている。
ベッドに入った。耳鳴りは消えていた。
代わりに——罪悪感が少しだけ、残っていた。