小説置き場

第12話「アナログのジャミング」

1,837文字 約4分

飛羽が紙を持ってきた。

 チラシだった。A5サイズ。両面カラー印刷。「第3回 槻ノ森商店街 歩き食いフェスタ! 10/26(土)」。出店リスト、地図、タイムスケジュール。QRコードまでついている。

「これ、何ですか」

「偽物だ」

「偽物」

「存在しないイベントのチラシ。俺が二時間で作った」

 透はチラシを裏返した。裏面にはスタンプラリーの台紙が印刷されている。五店舗を回るとオリジナルエコバッグがもらえる。

「クオリティ高くないですか」

「AIに作らせた。デザインだけはAIが得意だ。皮肉なことに」

 ブルー・ノートのカウンター。夜十時。レコードはビル・エヴァンス。

「今夜の授業は、文脈のずらし方。先週の商店街の炎上レビュー、覚えてるか」

「居酒屋に対する百二十アカウントの同期レビュー」

「あの炎上はハルカが犯人のパラメータを特定して収束させた。だが次が来る。同じ手口で別の店が狙われる可能性がある」

「止められないんですか」

「止めてもまた来る。AIのパラメータを変えれば同じ攻撃が別の店に向く。モグラ叩きだ。だから叩くんじゃなく、ゲームのルールを変える」

 飛羽がチラシを透の前に置いた。

「このチラシを百枚、商店街に撒く。ポストに入れる。店の前に置く。通行人に渡す」

「存在しないイベントのチラシを」

「そう。十月二十六日に歩き食いフェスタがあると思い込んだ人間が、SNSに投稿する。『商店街でフェスタやるんだって!』。その投稿にいいねがつく。拡散する。商店街に対するSNS上の文脈が炎上レビューから、フェスタの期待に変わる」

「情報を足して、文脈をずらす」

「正解。AIは既存の情報流通を制御する。炎上レビューの拡散を加速させたり、特定の投稿を上位表示させたり。だがAIが制御できるのはデジタルの情報だけだ。紙のチラシはAIの視界に入らない」

 透はチラシをもう一度見た。QRコードを読み取ってみた。リンク先は実在するウェブサイト。シンプルなイベントページ。

「このサイトも偽物?」

「ハルカが二十分で作った。三日間だけ存在する。イベント当日に『中止のお知らせ』を出して閉じる。誰も傷つかない。存在しなかったイベントが中止になっただけだ」

「でも、期待した人が」

「期待は残る。『次はいつ?』と思う。商店街に対するポジティブな期待が残る。炎上レビューの文脈は埋もれる」

 飛羽が立ち上がった。

「行くぞ。配布は深夜のうちに。朝になる前に百枚」

 二人で商店街を歩いた。深夜十一時。シャッターが降りた店の前に、ポストにチラシを入れていく。一枚ずつ。丁寧に。

 透はポストのフタを上げて、チラシを滑り込ませた。紙の感触。インクの匂い。

「飛羽さん。これ、原始的すぎません?」

「原始的だから効く。AIは紙のチラシの配布ルートを追跡できない。ポスティングのGPSログはない。手渡しの記録もない。物理的な情報伝達はAIの死角だ」

「でもいつか、AIが紙の情報も追跡するようになったら」

「そのときは別の方法を考える。大事なのは、常にAIの一歩先にいることじゃない。常にAIの想定外にいること。想定外は計算できない。計算できないものは、AIには存在しない」

 五十枚目。商店街の中央。和菓子屋の前のベンチで休憩した。

「飛羽さん。一つ聞いていいですか」

「何だ」

「情報を足すのと、嘘をつくのと、何が違うんですか」

 飛羽がポケットからチラシを一枚出した。街灯の下で見た。

「このチラシは嘘だ。存在しないイベント。だが——商店街に対するポジティブな期待を生む嘘だ。炎上レビューは本当の感想から始まった。本当の怒りをAIが増幅した。本当から始まった嘘と、嘘から始まる期待と、どっちが害がある?」

「……答えが出ない」

「出なくていい。答えが出ないことを考え続けるのが、人間の仕事だ。AIは答えを出す。即座に。最適解を。だから人間は、答えを保留する能力だけで、AIに勝てる」

 残り五十枚。配り終わったのは午前一時だった。

 透の手がインクで汚れていた。紙の端で指を切った。小さな傷。

「飛羽さん」

「何だ」

「今夜の任務、楽しかったです。ちょっとだけ」

「楽しいと思うな。これは戦争だ。だが、楽しくない戦争は長続きしない。少しだけ楽しめ。少しだけ」

 帰り道。透の耳に鳴る音はなかった。商店街は静かだった。百枚のチラシが、夜の中で眠っている。

 明日の朝。誰かがポストを開けて、チラシを見る。「歩き食いフェスタ?」と思う。SNSに投稿する。

 そのとき——AIの計算式に、一つのエラーが入る。

 紙一枚のエラー。