火曜日の夜、飛羽からメッセージが届いた。『今夜十時。商店街の南口に来い。単独任務を出す』——単独。透は制服から私服に着替えて、家を出た。母親には「コンビニに行ってくる」と言った。嘘の回数が増えている。
商店街の南口。街灯の下に飛羽がいた。コートのポケットに手を入れて立っている。
「商店街の中央付近で、一軒の店に不自然なレビュー炎上が起きている。エンリング上で。ハルカが検知した。炎上レビューの発信元が物理的にこの商店街の中にいる可能性が高い。お前の仕事は、耳鳴りだけで、発信元の方角と大まかな位置を特定しろ」
「……ゴムボールは」
「使わない。今夜は探知だけ。見つけたら報告。鎮圧は俺がやる。お前は探す犬だ」
透は商店街に入った。
夜の商店街はシャッターが降りている店が多い。だが居酒屋とラーメン屋は明かりがついている。人はまばら。
歩いた。
最初の百メートル。耳鳴りはない。
二百メートル。居酒屋の前。中から笑い声。テレビのスポーツ中継が聞こえる。
耳鳴りが——来た。
左の耳。キーン。教室レベルではない。水曜日のテスト信号より強い。持続している。消えない。
方角。左。つまり商店街の東側。
透はメッセンジャーに打った。
『商店街中央、居酒屋前。左耳。中程度。東方向。持続』
飛羽の返信。
『東へ50m歩け。強くなるか弱くなるか報告』
歩いた。東に。路地に入った。
強くなった。
『強くなった。路地に入って20m』
『そのまま北へ。建物の壁沿いに』
壁沿いに歩く。コンクリートの壁が冷たい。
耳鳴りが変わった。キーンからジリジリに。低くなっている。前回のアパートの件と同じ質感。低い音は深い同期を示す。
『質が変わった。低い。重い。近い』
足が止まった。
目の前に、二階建てのアパート。一階の窓からぼんやりと光が漏れている。カーテンが閉まっている。中は見えない。
耳鳴りが最も強い。ここだ。
だが何号室か。一階は四部屋ある。どの部屋かまでは分からない。耳鳴りは方角と距離は教えてくれるが、解像度がそこまで高くない。
『2階建てアパート前。1階。4部屋あり。方角はここで間違いない。部屋の特定まではできない』
三十秒。飛羽が路地の反対側から歩いてきた。
「方角は合ってる。ハルカのログ解析と一致している。発信元はこのアパートの一階。部屋は左から二番目。ハルカがWi-Fiの信号強度で特定した」
「俺の耳じゃ、部屋までは」
「今はそれでいい。方角と建物を掴めれば、最後の一歩はハルカが補完する。三人で一匹の犬。鼻はお前。目はハルカ。俺は足だ」
飛羽はゴムボールをポケットから出した。
「下がっていろ。ここからは俺の仕事だ」
透は路地の入口まで下がった。飛羽がアパートに近づくのを見ていた。
三分後、アパートの窓から光が変わった。カーテンの向こうで何かが動いた。飛羽がドアをノックする音が聞こえた。
五分後、飛羽が戻ってきた。
「終わった。中の人間は一人。パソコンとスマホ三台。レビュー炎上の発信元はここだった。スマホに仕込まれたボットが自動で炎上レビューを投稿していた。本人は半分操られていて、半分自分の意思でやっていた」
「半分?」
「怒ってたんだ。あの店に。常連だったのに、店員に嫌な態度を取られた。その怒りをSNSに書いたら、アルゴリズムが増幅した。一件のレビューが百件の同調を呼んだ。本人は最初のきっかけを作っただけで、あとはアルゴリズムが走った」
「じゃあ、AIのせいなのか、人間のせいなのか」
「どっちもだ。だからこの問題は終わらない。帰れ。試験は終わりだ」
透は歩き始めた。耳鳴りは消えていた。
「飛羽さん」
「何だ」
「点数は?」
飛羽が振り返った。暗い路地に立っている。コートの襟の向こうに、わずかに口元が見えた。
「使える。精度は今後の問題だ」
合格——なのか。
透は帰路を歩いた。商店街を抜けて、住宅街に入る。自販機のコンプレッサーの音。犬の遠吠えは聞こえない。この街の犬は吠えない。
コンビニで牛乳を買った。母親に「コンビニに行ってくる」と言った嘘の帳尻合わせ。
帰宅した。「ただいま」。
「牛乳買ってきてくれたの? ありがとう」
「うん」
部屋に戻った。ベッドに座った。手を見た。
ゴムボールを六十回投げた手。商店街を歩いて耳鳴りの方角を掴んだ耳。
少しずつ、役に立てるようになっている。
それが嬉しいのか怖いのか、まだ分からない。