小説置き場

第1話「閾値以下のシグナル」

2,962文字 約6分

槙透は空気を読むのが得意だった。得意すぎて、疲れていた。

 教室という空間には常に正解がある。誰の発言に笑い、誰の冗談をスルーし、どのタイミングで相槌を打てば摩擦が生じないか。透はそのすべてを正確に処理できた。処理できてしまうことが、たぶん問題だった。自動販売機みたいなものだ。百円入れたら百円分の反応が出てくる。故障しない。期待を裏切らない。その代わり、誰も自動販売機に興味を持たない。

 六時間目の国語。教師が夏目漱石の「こころ」について何か言っている。秘密を抱えた人間の孤独がどうとか。透は教科書の該当ページを開いたまま、窓の外を見ていた。校庭の端にある桜の木が、九月の終わりの風に葉を揺らしている。緑はまだ濃い。紅葉にはもう少しかかる。

 前の席の佐藤がスマホを膝の上で触っている。右隣の女子がノートの端にキャラクターの落書きをしている。後ろの席から、押し殺した笑い声。誰かが誰かにメッセージを送っている。

 透の耳の奥で、微かにキーンという音がしている。

 高周波のノイズ。蛍光灯のインバーターが劣化したときに出るような、あの耳障りな音に似ている。でも蛍光灯のせいじゃない。廊下に出ても鳴っている。トイレでも鳴っている。家でも鳴ることがある。

 特に——教室が妙に一体感を持ったとき。クラス全体がひとつの話題で盛り上がっているとき。誰かが何かを言って、全員が同じ方向を見て、同じように笑ったとき。そのとき、耳の奥が鳴る。

 健康診断では異常なし。耳鼻科にも行った。聴力は正常。「ストレスですかね」と医者は言った。透もそう思うことにしていた。そう思うことにしておかないと、他に説明がつかない。

 チャイムが鳴る。

 教室がざわめく。帰りの挨拶。鞄の音。透は教科書を閉じ、ノートを鞄に入れ、誰にも声をかけず、誰からも声をかけられず、教室を出た。自動販売機は、営業時間が終われば静かに消灯する。

 校門の掲示板。

 アルバイト募集の紙が何枚か貼ってある。コンビニ、塾の事務補助、引っ越し作業。どれも時給千百円前後。高校生の相場としては普通だ。透の目が止まったのは、一番下に画鋲で留められた小さな紙だった。他の募集チラシに半分隠れている。わざと目立たないように貼ったのか、後から貼られたものに押されたのか。

  深夜作業スタッフ募集   業務内容:市内壁面の落書き消去作業   時給:2,200円(深夜手当込)   勤務時間:23:00〜3:00   条件:18歳以上(応相談)   ※単独作業可

 時給二千二百円。深夜の落書き消しにしては明らかに高い。コンビニの夜勤でも千三百円がいいところだ。理由がある。深夜で、しかも「単独作業可」。人が集まらないから時給を上げている。あるいは、人を集めたくない理由がある。

 透はスマホで電話番号を撮影した。年齢は十七歳。条件に合わない。だが「応相談」と書いてある。電話して断られたら、それまでだ。失うものは何もない。

 帰り道。

 槻ノ森の住宅街は、夕方の光の中で静まり返っていた。車の音が遠い。犬の散歩をしている人とすれ違った。犬はゴールデンレトリバー。透を見ても吠えなかった。この街の犬は、あまり吠えない。そういうものだと思っている。

 駅前を通り過ぎる。新しくできたカフェの前に、数人の高校生が並んでいた。同じ学校の制服。透は知らない顔だった。知らない顔の方が気が楽だ。スマホを見ると、クラスのグループLINEにそのカフェの写真が上がっている。「行きたい!」「めっちゃ映える」「週末行こう!」。三つのメッセージに、既に二十以上のリアクションスタンプがついている。全部ハートか笑顔だ。

 透は何も押さずに画面を閉じた。

 自室。六畳。机とベッドと本棚。整理されているが、個性がない。壁に何も貼っていない。ポスターも写真も時計もない。引っ越してきたばかりの部屋のようだが、生まれてからずっとここに住んでいる。

 夕食。母親が作った肉じゃが。父親は出張で不在。テレビがついている。ニュースキャスターが、SNSでの誹謗中傷被害について報じている。炎上した投稿の画面が一瞬映り、コメント欄が殺到している様子がモザイク越しに見える。

「ねえ透、あんたSNSやりすぎてない?」

「やってないよ」

「そう? 最近の子はみんなスマホばっかりって言うじゃない」

「みんなはやってる。僕はやってない」

 嘘ではない。SNSは見ている。ほぼ見ているだけで、投稿はしない。コメントもしない。いいねを押すこともほとんどない。タイムラインを眺める。流れていく情報を見る。特に何も感じない。

 感じないことが、最近少しだけ気になっている。

 クラスメイトは何かに怒ったり笑ったり共感したりしている。同じ動画を見て同じ感想を言い、同じ店に行って同じ写真を撮り、同じハッシュタグをつける。それが自然なことなのか、不自然なことなのか、透には判断がつかない。たぶん自然なのだ。人間は群れる動物だ。教科書にもそう書いてある。

 ただ、みんなが同じ方向を向いて笑っている瞬間に、耳の奥がキーンと鳴ることがある。

 その音だけが、透にとってのノイズだった。

 食器を片づけた。母親が何か話しかけてきたが、テレビのニュースの音に紛れて聞き取れなかった。聞き返さなかった。聞き返すほどの内容ではなかったはずだ。たぶん。もう知らん。

 風呂に入った。湯船に浸かると、耳が水面の下に沈む。キーンという音が遠くなる。水の中では世界が静かだ。水圧が耳を塞いで、外の音も内の音も等しく遠ざける。このまま沈んでいたいと思う。別に死にたいわけじゃない。ただ、静かでいたいだけだ。

 髪を乾かした。二十二時。部屋に戻ると、スマホの通知が七件溜まっていた。グループLINEの続き。カフェの話がまだ続いている。誰かが撮ったスイーツの写真。「可愛い!」が四連続。透は通知を消した。

 スマホで撮影した電話番号に連絡を入れた。

 三コールで出た。男の声。低くて、乾いている。

「はい」

「あの、掲示板を見たんですけど。落書き消しの仕事」

「年齢は」

「十七です」

 沈黙。一秒、二秒、三秒。相手が何かを考えている。電話の向こうで、微かに金属が擦れるような音がした。

「……まあいいか。体力はあるか」

「普通です」

「普通でいい。明日の夜、旧市街の第三駐車場に来てくれ。二十三時。動きやすい服装で。長袖」

「面接とかは」

「ない。来ればわかる」

 通話が切れた。名前も聞かれなかった。履歴書も要らない。怪しい。完全に怪しい。まともな雇用主なら、未成年に深夜労働をさせたりしない。

 でも、時給二千二百円。四時間で八千八百円。週二回で月七万円。高校生にとっては大金だ。

 それに。正直に言えば。

 深夜に一人で壁の落書きを消すという作業は、教室で空気を読み続けるよりずっと楽そうだった。誰にも合わせなくていい。誰にも笑わなくていい。誰にもリアクションスタンプを押さなくていい。壁を綺麗にして、金をもらって、帰る。

 完璧な仕事だ。

 透はスマホを置いて、天井を見た。白い天井。何も貼っていない。何もない。

 耳の奥で、キーンという音が一瞬だけ強くなった。テレビの音でもエアコンの音でもない。耳の中から来ている音。いつもの音。

 ストレスだ。そう思うことにしている。

 目を閉じた。明日の夜のことだけを考えた。壁の落書きを消す。それだけのことだ。

 ——そのはずだった。