依頼人は和菓子屋の息子だった。四十代。実家が閉店することになり、遺品整理中に父親の遺言書を見つけたという。
「父は半年前に亡くなりました。遺言書は公証人を通したちゃんとしたものです。で、その中に、」
鶫はメモを取った。
「『猫がいる限り、店を閉めてはならない』と書いてあると」
「はい。で、近所では『猫に店を遺した変わり者』って噂になってて。でも父は変わり者じゃなかった。普通の和菓子屋のおやじです。何か、別の意味があるんじゃないかと思って」
和菓子屋「槻乃月」。商店街の角にある老舗。創業五十年。先代の店主が今年の春に亡くなり、息子は東京で別の仕事をしている。店は閉める予定だが、遺言のせいで手続きが進まない。
鶫は和菓子屋を訪ねた。
シャッターは半分降りている。ガラス越しに店内が見える。ショーケースは空。だが棚の上に、座布団が一枚敷いてあった。三毛猫が丸くなっている。店の看板猫。名前は、。
「お名前は」
「チヨです。父が拾った猫で、もう十四歳。店が閉まってからも、毎日ここに来ます」
チヨは鶫を見て、尻尾の先だけ動かした。吠えない、当たり前だ、猫だ。だがこの街では、犬も吠えない。
遺言書のコピーを見せてもらった。公証人の印。確かに「猫がいる限り、店を閉めてはならない」と書いてある。
だが遺言書にはもう一項あった。
「閉店に際しては、猫の世話に要する費用を、別紙の口座から月額二万円を上限として支出すること。口座の残高が尽きた時点で、猫の世話は近隣の有志に委託すること」
鶫は「別紙の口座」を確認した。地方銀行の普通口座。残高は百四十万円。月額二万円で約六年分。チヨの平均余命を考えれば、十分な額だ。
「お父さんは、猫の老後を設計していたんですね」
息子の表情が緩んだ。
「そうか……猫に店を、じゃなくて。猫の世話をする場所として、店を残せってことか」
「店を残す義務があるわけではありません。猫の世話ができる環境があればいい。店を閉めても、近隣でチヨを引き取ってくれる方がいれば、」
「商店街の人たちは、チヨを可愛がってくれてます。パン屋のおばさんが『うちで引き取ってもいいよ』って」
解決だ。遺言の真意は猫の福祉。「店を閉めるな」は「猫の居場所を失うな」の意味。噂話が歪曲しただけだった。
報酬を受け取った。息子は安堵した顔で帰っていった。
鶫は和菓子屋の前に立った。チヨがガラス越しにこちらを見ている。丸い目。
律がいた。いつの間にか隣に立っている。
「また来たのか」
「看板猫の遺言、ちょっと記事にしたくて。取材させてもらいました。息子さんに」
「記事にしていいのか」
「感動的な話にしますよ。『槻ノ森の看板猫に遺産が』。タイムスのネタとしてはちょうどいい」
律はカメラを構えてチヨを撮った。チヨはカメラを見て、あくびをした。
「神崎さん。一つだけ、記事に書けないことがあるんですけど」
「何だ」
「息子さんから聞いたんですが、店主、亡くなったおやじさんは、閉店を決める三ヶ月くらい前に、家族に『変なものを見た』って言ったらしいんです」
鶫の手が止まった。
「変なもの」
「詳しくは言わなかったそうです。ただ、『店の裏で、夜中に、光るものを見た』と。家族は寝ぼけてたんだろうって気にしなかった」
「光るもの」
「それだけです。それっきり、おやじさんはその話をしなかった。三ヶ月後に閉店を決めて、その二ヶ月後に亡くなった。死因は心臓発作」
鶫は和菓子屋の裏手を見た。建物の裏は路地になっている。その先は、北槻ノ森の雑木林の方角。
「律。雑木林との距離は」
「直線で四百メートルくらい。犬の沈黙エリアの外縁ですね」
外縁。三百メートルの円のすぐ外。
店主は「変なものを見た」と言った。そして店を閉めた。因果関係があるかどうかは分からない。心臓発作との関連も不明。
だが、この街では、「気にしなかった」人間が多すぎる。犬が吠えなくなっても気にしない。隣人が消えても気にしない。光るものを見ても気にしない。
気にしないことが、この街の、日常だ。
「記事には書かないのか」
「書かない。証拠がないし。でも、メモには残す」
律は手帳に何か書いた。祖父のメモの隣に、新しいメモを。
鶫はチヨを見た。猫はガラスの向こうで、座布団の上に丸くなっていた。
猫は何かを見ているのだろうか。犬が吠えなくなるものを、猫はどう感じるのか。
チヨの目が、一瞬だけ鶫の背後、雑木林の方角、に動いた。
気のせいかもしれない。