小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第6話「語られない退職」

2,050文字 約5分

篠原美和は、報告書を読んで黙った。

 鶫は篠原の家のリビングに座っていた。テーブルの上にお茶と報告書。足元で柴犬のゴンタが丸くなっている。吠えない。尻尾だけが時折ぱたぱたと動く。

「原因不明、ですか」

「はい。動物病院での検査結果は異常なし。周辺環境の調査でも、有害物質や騒音源の特定には至りませんでした」

 嘘は書いていない。推測を省いただけだ。

 篠原は報告書をテーブルに置いた。

「探偵さん。正直に聞いていいですか」

「どうぞ」

「本当に、原因は分からなかったんですか? それとも、分かったけど、書けなかった?」

 鶫は篠原の顔を見た。三十代の主婦。犬の飼い主。だがこの人の目は鋭い。表面の穏やかさの下に、見抜く力がある。

「後者です」

「やっぱり」

「ただ、私が感じた、仮説を正確に伝えるには、証拠が不十分です。感覚的なことしか言えません。報告書には事実だけを書きました」

 篠原は頷いた。それからゴンタの頭を撫でた。犬は目を閉じた。

「この子、吠えなくなって最初は不気味だったんです。でも一週間経って、慣れました。それが、一番怖い」

「慣れた?」

「ええ。吠えないことに、もう驚かなくなった。近所の人も同じです。最初は気にしてたのに、今はもう誰も話題にしない。忘れたんじゃなくて、受け入れた、という感じ」

 受け入れた。

 この街の住民が、静かすぎることに疑問を持たないのと同じ構造だ。異常が日常に溶け込む。溶け込めば、異常ではなくなる。

「報酬は、」

「お支払いします。結果が出なくても、調べていただいたことに価値がありますから」

 篠原は封筒を渡してくれた。薄い。だが、気持ちの厚みがあった。

 篠原の家を出て、住宅街を歩いた。東町二丁目。十月の午後。ケヤキの葉が黄色くなり始めている。風が吹くと、葉が数枚落ちる。

 北槻ノ森の雑木林の方角を見た。稜線は変わらない。穏やかな緑の線。何もないように見える。

 足が止まった。

 今度は雑木林の前ではない。住宅街の真ん中だ。だが、止まった。

 違う。今回は物理的に止まったのではなく、記憶が足を止めた。

 退職の引き金になった事件。三年前。

 世田谷区の一戸建て。殺人事件。被害者は五十代の男性。自宅の書斎で刺殺された。容疑者は特定され、証拠も揃い、起訴された。事件としては解決済みだ。

 だが、書斎のドアの前で、鶫の足が止まった。

 現場検証の日。同僚たちが次々に書斎に入っていく中で、鶫だけが入口で動けなくなった。理由は分からなかった。恐怖ではなかった。嫌悪でもなかった。ただ、入るべきではない、という感覚。

 十秒で動いた。入った。検証を済ませた。証拠を整理した。報告書を書いた。

 だが、あの十秒がずっと残っていた。

 説明がつかない十秒。捜査一課に十二年いて、どの現場でも止まらなかった足が、あの書斎の前でだけ止まった。

 退職したのは、その三ヶ月後だ。

 直接の理由は組織内の軋轢だった。上司との見解の相違。捜査方針をめぐる対立。だが本当の理由は、あの十秒だった。説明のつかないことが自分の身に起きた、その事実を消化できなかった。

 鶫は歩き始めた。

 事務所に戻ると、律がいた。階段の下でスマートフォンを触っている。

「あ、神崎さん。報告書渡し終わりました?」

「ああ」

「篠原さん、なんて?」

「原因不明でも報酬を払ってくれた」

「いい人だ」

 鶫は事務所のドアを開けた。律が自然についてくる。もう追い返す気力もない。

 コーヒーを二人分淹れた。八十五度。三分半。律の分にはミルクと砂糖を入れた。律が甘党であることは先週知った。

「律」

「はい」

「一つ聞いていいか」

「珍しいですね、神崎さんから質問」

「お前の祖父は、雑木林の奥に、入ったことはあるのか」

 律はコーヒーカップを持ったまま、三秒考えた。

「分からない。でも、メモに書いてるってことは、入口までは行ったんだと思います。足が止まるって書いてるから。止まった経験がある」

「止まって、引き返した」

「たぶん。じいちゃんは、止まる側の人間だったんだと思います」

 止まる側。

「私も止まった」

「知ってます」

「だが以前にも、足が止まったことがある。この街ではなく、東京で。三年前に」

 律のカップが止まった。

「刑事時代の現場だ。殺人事件の書斎の前で、理由もなく足が止まった。十秒で動いたが、あの十秒がなければ、今もまだ警視庁にいたかもしれない」

 律は何も言わなかった。

 鶫はコーヒーを飲んだ。苦い。

「この街に来たのは偶然だ。静かな場所が欲しかっただけだ。だが、この街で足が止まったとき、三年前と同じ感覚がした。同じ種類の、」

「"入るべきではない"ですか」

「ああ」

 律は窓の外を見た。夕暮れの商店街。街灯が一つずつ点き始めている。

「神崎さん。じいちゃんのメモ、もう一枚出てきたら持ってきます」

「頼む」

「でも一つだけ。じいちゃんは、足が止まることを怖いとは言ってなかった。むしろ、ありがたいと言ってた。止まるから、消えなくて済んだって」

 鶫はその言葉を、コーヒーと一緒に飲み込んだ。

 窓の外で、犬が一匹も吠えていなかった。

 静かな街だ。

 静かすぎる街だ。