小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第5話「書けない報告書」

1,924文字 約4分

三日が経っても、報告書は白紙だった。

 鶫は事務所の机に向かい、ノートパソコンの画面を見つめていた。カーソルが点滅している。「調査報告書」の見出しだけが打ち込んである。

 何を書く。

 「東町二丁目の犬六匹が同時に吠えなくなった原因は、北槻ノ森雑木林の方角からの何らかの影響と推測される」。推測の根拠は。「調査員自身が雑木林の入口で足が止まる体験をした」。体験は証拠にならない。

 鶫はコーヒーを淹れた。三杯目。今日は規定の量を入れている。苦い。

 午後二時にドアが開いた。

 律だった。ショルダーバッグにカメラ。今日はジーンズにチェックのシャツ。手にコンビニの袋を持っている。

「差し入れ。肉まん。寒くなってきたんで」

「頼んでいない」

「頼まれなくても持ってくるのが地域情報誌の強みです。報告書、書けた?」

 鶫は答えなかった。律がパイプ椅子に座って、肉まんを一つ鶫の机に置いた。湯気が立っている。

「書けないでしょう。『犬が吠えない原因は不明です』じゃ報告にならないし、『雑木林のせいです』じゃオカルト雑誌になるし」

「お前に聞いていない」

「聞いてなくても言います。じいちゃんのメモ、もう一枚見つけた」

 律はショルダーバッグからクリアファイルを出した。中に古い紙が一枚。折り目がついている。万年筆のインクが少し滲んでいる。

 鶫はクリアファイルを受け取った。

 文字は達筆だが読める。

 「森の声は秋に近くなる。十月の半ばから。犬は先に聞く。」

 十月の半ば。犬は先に聞く。

 六匹の犬が吠えなくなったのは十月十日。半ばの少し前。そして、犬たちの住所は全て雑木林の周辺三百メートル以内。

 犬は、何を「聞いた」のか。

「じいちゃんは『声』って書いてる。森の声。何のことか分からなかったけど、犬の件を聞いて、もしかしてと思って」

「声」

「超音波とか、低周波とか。人間に聞こえなくて犬に聞こえる帯域の何か、って考えれば、科学的な説明もつかなくはないですよね」

 鶫はメモを見つめた。十秒。二十秒。

「つかない」

「え?」

「低周波や超音波で犬が一時的に吠えなくなる可能性はある。だが、六匹が同時に、三日以上継続して吠えないことの説明にはならない。通常の物理現象であれば、発生源を止めた時点で回復する。発生源が三日間継続している証拠がない」

 律は黙った。

「それに」鶫は続けた。「私の足が止まったことの説明がつかない。低周波で人間の足が止まることはない。心理的なものだと言えばそれまでだが、私は心理的な理由で足が止まる人間ではない」

「自分でそう思ってるだけでは」

「私は捜査一課で十二年間、殺人現場を歩いてきた。火災現場も、水死体の引き揚げ現場も、立入禁止のどの現場でも足は止まらなかった。止まったのは、」

 鶫は言葉を切った。

 止まったのは、一度だけある。退職の引き金になったあの事件の現場。あの建物の前で、足が止まった。説明のつかない理由で。

 それを律に言うつもりはなかった。

「……とにかく、報告書には事実だけを書く。犬六匹が同時に吠えなくなった。発症日は十月十日。動物病院で異常なし。原因は特定できず。以上」

「それでいいんですか」

「事実を書く。推測は書かない。それが報告書だ」

 律は肉まんを噛みながら、窓の外を見た。商店街の向こうに、雑木林の稜線が見えた。

「神崎さん。俺、一つだけ聞いていいですか」

「何だ」

「あの雑木林の前で、足が止まったとき。怖かった?」

 鶫は肉まんに手を伸ばした。まだ温かい。一口噛んだ。肉汁が口の中に広がった。

「怖くはなかった」

「じゃあ、何を感じた?」

「……入ってはいけない、と思った。怖いからではなく。ただ、入るべきではないと。理由なく」

 律は頷いた。何かを確認したような顔だった。

「じいちゃんも、たぶん同じだったんだと思います。怖いから近づくなって書いたんじゃなく、入るべきじゃないから入るなって。止まった人間は正しいんです。止まらなかった人間が消える」

「それは、」

「説明にはなってないですよね。分かってます」

 律は肉まんの残りを口に入れて、立ち上がった。

「でも、俺はそういう話だと思ってるんですよ。説明のつかないことが、この街にはある。あるから、犬も吠えないし、人も静かに消える。神崎さんは組織的な何かだと思ってる。俺はもっと、古いものだと思ってる」

 認識のズレ。

 二人の間にある、最初からの溝。

「お前の仮説は受け入れられない」

「知ってます。でも、足は止まったでしょう?」

 律は手を上げて事務所を出ていった。階段を降りる足音が遠ざかる。

 鶫は椅子に座ったまま、報告書の白い画面を見つめた。

 肉まんを食べ終えた。温かかった。

 報告書を書いた。事実だけ。原因不明。

 保存して、パソコンを閉じた。

 窓の外で、犬が一匹も吠えていなかった。