三日が経っても、報告書は白紙だった。
鶫は事務所の机に向かい、ノートパソコンの画面を見つめていた。カーソルが点滅している。「調査報告書」の見出しだけが打ち込んである。
何を書く。
「東町二丁目の犬六匹が同時に吠えなくなった原因は、北槻ノ森雑木林の方角からの何らかの影響と推測される」。推測の根拠は。「調査員自身が雑木林の入口で足が止まる体験をした」。体験は証拠にならない。
鶫はコーヒーを淹れた。三杯目。今日は規定の量を入れている。苦い。
午後二時にドアが開いた。
律だった。ショルダーバッグにカメラ。今日はジーンズにチェックのシャツ。手にコンビニの袋を持っている。
「差し入れ。肉まん。寒くなってきたんで」
「頼んでいない」
「頼まれなくても持ってくるのが地域情報誌の強みです。報告書、書けた?」
鶫は答えなかった。律がパイプ椅子に座って、肉まんを一つ鶫の机に置いた。湯気が立っている。
「書けないでしょう。『犬が吠えない原因は不明です』じゃ報告にならないし、『雑木林のせいです』じゃオカルト雑誌になるし」
「お前に聞いていない」
「聞いてなくても言います。じいちゃんのメモ、もう一枚見つけた」
律はショルダーバッグからクリアファイルを出した。中に古い紙が一枚。折り目がついている。万年筆のインクが少し滲んでいる。
鶫はクリアファイルを受け取った。
文字は達筆だが読める。
「森の声は秋に近くなる。十月の半ばから。犬は先に聞く。」
十月の半ば。犬は先に聞く。
六匹の犬が吠えなくなったのは十月十日。半ばの少し前。そして、犬たちの住所は全て雑木林の周辺三百メートル以内。
犬は、何を「聞いた」のか。
「じいちゃんは『声』って書いてる。森の声。何のことか分からなかったけど、犬の件を聞いて、もしかしてと思って」
「声」
「超音波とか、低周波とか。人間に聞こえなくて犬に聞こえる帯域の何か、って考えれば、科学的な説明もつかなくはないですよね」
鶫はメモを見つめた。十秒。二十秒。
「つかない」
「え?」
「低周波や超音波で犬が一時的に吠えなくなる可能性はある。だが、六匹が同時に、三日以上継続して吠えないことの説明にはならない。通常の物理現象であれば、発生源を止めた時点で回復する。発生源が三日間継続している証拠がない」
律は黙った。
「それに」鶫は続けた。「私の足が止まったことの説明がつかない。低周波で人間の足が止まることはない。心理的なものだと言えばそれまでだが、私は心理的な理由で足が止まる人間ではない」
「自分でそう思ってるだけでは」
「私は捜査一課で十二年間、殺人現場を歩いてきた。火災現場も、水死体の引き揚げ現場も、立入禁止のどの現場でも足は止まらなかった。止まったのは、」
鶫は言葉を切った。
止まったのは、一度だけある。退職の引き金になったあの事件の現場。あの建物の前で、足が止まった。説明のつかない理由で。
それを律に言うつもりはなかった。
「……とにかく、報告書には事実だけを書く。犬六匹が同時に吠えなくなった。発症日は十月十日。動物病院で異常なし。原因は特定できず。以上」
「それでいいんですか」
「事実を書く。推測は書かない。それが報告書だ」
律は肉まんを噛みながら、窓の外を見た。商店街の向こうに、雑木林の稜線が見えた。
「神崎さん。俺、一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「あの雑木林の前で、足が止まったとき。怖かった?」
鶫は肉まんに手を伸ばした。まだ温かい。一口噛んだ。肉汁が口の中に広がった。
「怖くはなかった」
「じゃあ、何を感じた?」
「……入ってはいけない、と思った。怖いからではなく。ただ、入るべきではないと。理由なく」
律は頷いた。何かを確認したような顔だった。
「じいちゃんも、たぶん同じだったんだと思います。怖いから近づくなって書いたんじゃなく、入るべきじゃないから入るなって。止まった人間は正しいんです。止まらなかった人間が消える」
「それは、」
「説明にはなってないですよね。分かってます」
律は肉まんの残りを口に入れて、立ち上がった。
「でも、俺はそういう話だと思ってるんですよ。説明のつかないことが、この街にはある。あるから、犬も吠えないし、人も静かに消える。神崎さんは組織的な何かだと思ってる。俺はもっと、古いものだと思ってる」
認識のズレ。
二人の間にある、最初からの溝。
「お前の仮説は受け入れられない」
「知ってます。でも、足は止まったでしょう?」
律は手を上げて事務所を出ていった。階段を降りる足音が遠ざかる。
鶫は椅子に座ったまま、報告書の白い画面を見つめた。
肉まんを食べ終えた。温かかった。
報告書を書いた。事実だけ。原因不明。
保存して、パソコンを閉じた。
窓の外で、犬が一匹も吠えていなかった。