小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第4話「届かない声」

1,926文字 約4分

依頼人は三十代の女性だった。名前は篠原美和。槻ノ森市東町在住。夫と二人暮らし。

「うちの犬が、吠えなくなったんです」

 鶫はメモを取った。

「品種は」

「柴犬です。オスの七歳。名前はゴンタ。元々そんなにうるさい子じゃなかったんですけど、散歩中に他の犬に会ったら吠えるし、宅配便が来たら吠えるし、普通の柴犬だったんです。それが三日前から、何にも吠えなくなって」

「病気の可能性は」

「動物病院に連れていきました。異常なしです。喉も声帯も正常。食欲も普通。元気もある。ただ、吠えないんです」

 鶫は篠原の顔を見た。依頼内容としては奇妙だ。犬が吠えなくなったことは、通常、探偵に依頼する案件ではない。獣医の範疇だ。

「なぜ探偵に」

 篠原は少し迷ってから言った。

「うちだけじゃないんです。近所の犬も、みんな吠えなくなってる」

 鶫の手が止まった。

「みんな?」

「東町の二丁目と三丁目のあたり。散歩友達に聞いたら、三日前からうちのゴンタだけじゃなく、六匹くらいが急に吠えなくなったって。品種もバラバラ。柴犬、ゴールデン、ミニチュアダックス、雑種。みんな健康なのに。気味が悪くて」

 六匹。同じ時期。同じエリア。

「動物病院では何と」

「ストレスか環境の変化でしょう、って。でも、三日前に環境が変わったことなんて、何もないんです」

 鶫は依頼を受けた。報酬は成功報酬制。

 東町二丁目。篠原の自宅周辺を歩いた。住宅街。築二十年ほどの一戸建てが多い。街路樹はケヤキとハナミズキ。秋の風がよく通る。

 犬の散歩をしている人に何人か声をかけた。

 ゴールデンレトリバーを連れた六十代の男性。「そう言えば、うちのも吠えなくなりましたね。でもおとなしくて助かってますけど」

 ミニチュアダックスを連れた四十代の女性。「気づかなかった。言われてみれば、最近静かですね」

 気づいていない人が多い。犬が吠えないことは、不便ではない。むしろ楽だ。だから異常として認識されにくい。

 六匹の飼い主から情報を集めた。発症日は全て三日前。十月十日の朝から。前日まで普通に吠えていた犬が、翌朝から吠えなくなった。一斉に。

 十月十日に何があったか。

 鶫は東町二丁目の地図を開いた。六匹の住所をプロットすると、半径三百メートルの円に収まった。中心にあるのは、北槻ノ森の雑木林の端。槻ノ森緑地の入口。

 雑木林に向かった。

 午後の光がケヤキの葉を透かしている。散策路は整備されていて、ジョギングをする人がちらほらいる。鳥の声が聞こえる。風が枝を揺らす音。

 静かだ。

 散策路を進むと、道が二つに分かれる場所があった。右は遊歩道の続き。左は「関係者以外立入禁止」の看板が立った細い道。看板は古く、文字がかすれている。

 鶫は左の道の入口に立った。

 何も見えない。ただの林道だ。下草が茂って、人が歩いた形跡はない。

 だが、足が進まなかった。

 理由が分からない。物理的な障害はない。看板があるだけだ。立入禁止だから入らない、というのは理屈としては正しい。だが鶫は元捜査一課だ。立入禁止の場所に入ることに躊躇はない。

 躊躇ではなく、入りたくない。

 足が、自分の意思とは別の判断で止まっている。

 鶫は三歩後退した。自分の足を見た。動く。後ろには動く。前には、。

 スマートフォンが鳴った。

 律だった。

「神崎さん。今、どこにいます?」

「北槻ノ森の雑木林の入口」

「……マジで言ってます?」

 律の声が、冗談を言うトーンではなかった。

「じいちゃんのメモに、もう一つ読めるやつがあったんです。昨日、整理してたら見つけた」

「何と書いてある」

「、『森の奥に入ろうとする者は、足が止まる。それでいい。止まらなかった者が消える』」

 鶫は雑木林の細い道を見つめた。下草。木漏れ日。鳥の声。何もない。何もないのに、足が前に出ない。

「律。犬の件だが」

「犬?」

「東町二丁目で、六匹の犬が三日前から一斉に吠えなくなった。全員この雑木林の周辺三百メートル以内の犬だ」

 電話の向こうで、律が黙った。

「……犬も、止まったんですかね」

「犬は吠えなくなった。人間は足が止まる。同じことなのか、違うことなのか」

「それは、」

「説明がつかない」

 鶫は自分の口から出た言葉に、少し驚いた。説明がつかない。それを認めることが、自分の信条に反していることは分かっていた。

 だが足は動かない。

「帰ります」

「……はい。帰ったほうがいいです」

 鶫は雑木林を出た。住宅街に戻ると、足は普通に動いた。

 事務所に戻り、椅子に座り、コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。

 篠原への報告書を書こうとして、ペンが止まった。

 何と書く。「犬が吠えなくなった原因は不明です」。それは報告にならない。「環境要因の可能性があります」。嘘になる。

 鶫はコーヒーを飲んだ。苦い。規定の量。

 報告書は、明日書く。