小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第3話「存在しない番地」

2,163文字 約5分

茨城県つくば市。

 転出届に記載された住所を、鶫はスマートフォンの地図で確認した。番地まで入力すると、ピンが落ちる場所は研究学園都市の外縁部、住宅地と畑が混在するエリアだった。

 つくばエクスプレスで秋葉原から四十五分。駅からバスで十五分。バスを降りると、風が変わった。平野の風だ。槻ノ森の雑木林を抜ける風とは質が違う。遮るものがなく、水平に吹いてくる。筑波山が北に見えた。穏やかな稜線。雲が山頂を半分だけ隠している。

 番地を辿った。

 住宅地の通りを歩く。二百メートルごとに電柱の番地表示を確認する。七番地。九番地。十一番地。

 転出届の記載は十三番地。

 十一番地の隣は、十五番地だった。

 鶫は立ち止まった。

 十一番地は築二十年ほどの一戸建て。十五番地は古い平屋。その間に——何もない。ブロック塀が途切れて、幅二メートルほどの隙間がある。隙間の奥は空き地ではなく、隣家の側面が見えるだけだ。建物が建てられるような空間ではない。

 十三番地は、存在しない。

 念のため、通りの反対側も確認した。偶数番地の並び。十二番地、十四番地、十六番地。欠番はない。奇数側だけ、十三番地が飛んでいる。

 鶫は十五番地のインターホンを押した。八十代の男性が出てきた。

「すみません。こちらの並びに十三番地はありますか」

「十三? ないよ。昔からない。うちが越してきたときにはもう十一の隣が十五だった。三十年前からそうだよ」

「なぜ欠番なのか、ご存じですか」

「さあ。区画整理の都合じゃないかね。気にしたこともなかったけど」

 鶫は礼を言った。

 バス停に戻る道を歩きながら、考えた。

 三十年以上前から欠番。区画整理の都合と考えれば不自然ではない。日本中に欠番の番地はいくらでもある。だが、この欠番の番地を、三浦幸一は転出届の転出先として記載した。

 存在しない住所を書いた。あるいは、書かされた。

 律の言う通りだった。転出届は正常に処理されている。だが行き先は存在しない。

 鶫はバスに乗り、駅に向かった。車窓に畑が流れていく。キャベツの列が整然と並んでいる。遠くに研究所の白い建物が見えた。

 帰りの電車の中で、律に電話をかけた。

「三浦の転出先を確認した。十三番地は三十年以上前から欠番だ。存在しない」

「やっぱり。……三人とも同じパターンですね」

「三人とも転出先が欠番だったのか」

「いや、欠番とは限らない。一人は住所自体は存在するけど、そこにあったのは月極駐車場で、住居が建ったことは一度もない。もう一人は住所のビルの階数が存在しない。八階建てのビルの十一階。どれも書類上は通ってしまう。転出届には住所を書くだけで、役所は中身を見ないから」

 制度の隙間。転出届は本人の申告で完結する。存在しない番地も、存在しない階数も、そのまま受理される。

「律。一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「お前がこの件を追い始めたのは、タイムスの取材がきっかけだと言ったな。だが三年で七人の失踪パターンを追って、転出先の実在性まで確認するのは、取材の範囲を超えている。何が動機だ」

 電話の向こうで、律が黙った。いつもの軽口が出ない。

 三秒。五秒。

「……じいちゃんのメモです」

「メモ?」

「俺のじいちゃん、この街の旧家の出で。子供の頃から変なことを言う人だった。『この街には声が届かない場所がある』って。意味が分からなかった。じいちゃんが死んでから、遺品を整理してたら、走り書きのメモが何枚か出てきた」

「何が書いてあった」

「ほとんどは断片的で、読めないのも多い。でも一枚だけ、はっきり読めるのがあった」

 律が一拍置いた。声のトーンが変わっていた。軽口の男ではなく、何かを長い間抱えてきた人間の声。

「——『静かに去る者を、追ってはならない』」

 鶫は何も言わなかった。

 電車の窓の外を、利根川の鉄橋が流れていった。水面が午後の光を反射して白い。

「じいちゃんがいつ書いたのかも分からない。何を見て書いたのかも。でも、俺がタイムスで取材してるうちに、静かにいなくなる人が何人もいることに気づいて。じいちゃんのメモを思い出して。それで」

「追っている」

「追っていいのか、分からないまま。じいちゃんは追うなって書いてるのに」

 鶫は窓の外に目を向けた。田園地帯が住宅地に変わり始めている。東京が近づいている。

「律。私はお前の祖父の忠告に従う気はない」

「……ですよね」

「だがお前は従ってもいい。この件から降りてもいい。お前の選択だ」

 律は短く笑った。自嘲ではなく、少し安堵したような笑い。

「降りませんよ。降りるつもりなら、最初から神崎さんに話してない」

 電話を切った。

 槻ノ森に戻ったのは夕方だった。駅前の商店街を歩く。パン屋のおばさんが店先を掃いている。花屋が閉店準備をしている。学生が自転車で通り過ぎる。犬の散歩をしている中年の男性とすれ違った。ゴールデンレトリバー。犬は鶫を見ても吠えなかった。

 当たり前のように——吠えなかった。

 事務所に戻った。コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。椅子に座り、メモを整理した。

 存在しない番地。存在しない階数。存在しない駐車場の住居。

 この街から静かに去った七人は、存在しない場所に向かった。

 「静かに去る者を、追ってはならない」

 鶫はメモ帳にペンを走らせた。「追ってはならない」に二重線を引いた。

 追う。

 コーヒーを飲んだ。苦い。今日は規定の量を入れた。