失踪者リストの七番目の人物は、小田切健一。三十四歳。独身。市内の会計事務所に勤務していた。二年前に転出届を提出し、転出先は千葉県船橋市の住所で、番地が存在しない。
鶫は会計事務所を訪ねた。駅前のビルの三階。ガラスのドアに「高橋会計事務所」の金文字。
所長の高橋は五十代の男で、丸い眼鏡をかけている。小田切について聞くと、高橋は眼鏡の位置を直した。左手で。右手はデスクの上に置いたまま動かない。
嘘の前に片手だけ動くタイプだ。
「小田切くんは二年前に退職しました。退職届を受理して、有給消化して、それきりです」
「退職の理由は」
「一身上の都合。書面にはそう書いてありました」
「連絡は取れますか」
「取れません。退職後に一度電話しましたが、番号が変わっていました」
鶫は退職届の写しを見せてもらえるか聞いた。高橋は少し渋ったが、探偵業届出証明書を見せると応じた。
退職届。A4の用紙に手書き。「一身上の都合により、令和五年十月三十一日をもって退職いたしたく」。日付。署名。捺印。
筆跡を見た。右下がりの癖。字画のバランスは良い。強い筆圧で書かれている。迷いのない字だ。
「この字は小田切さんの字ですか」
「小田切くんの字です。確認しました。うちは帳簿を手書きで記入してもらうことがあるので、筆跡は見慣れています」
「退職届の提出日を確認します」
「十月十五日です」
鶫は手帳を開いた。小田切の転出届の提出日。令和五年十月十五日。
同日だった。
退職届と転出届を同じ日に提出している。朝に会計事務所で退職届を出し、その足で市役所に行って転出届を出した。あるいは逆順。いずれにしても、一日のうちに仕事を辞め、街を出る手続きを全て終わらせている。
「高橋さん。小田切さんは退職届を出した日、普段と変わった様子はありましたか」
高橋が眼鏡を直した。また左手で。
「普通でした。いつも通り朝来て、退職届を出して、デスクを片付けて。荷物は段ボール一つ分。少ない人でしたから。午前中に全部済ませて、午後には帰りました」
「引き止めは」
「しました。有能な人でしたから。でも本人の意思が固くて。理由を聞いても『決めたことです』と」
決めたこと。
自発的だ。退職届は本人の筆跡。転出届も本人が提出。強制の痕跡はない。全てが自発的に見える。
だが鶫はこの「自発的」の精度が気になった。
人間が自発的に街を出るとき、痕跡はもっと雑になる。引き止める上司と揉める。荷物を取りに来る。友人に連絡する。退職後に年金や保険の手続きでやり取りが残る。
小田切にはそれがなかった。退職届、転出届、携帯番号の変更。全てが一日で完了している。残留痕がない。振り返る隙がない。
完璧に自発的。
完璧すぎる。
「高橋さん。最後に一つ」
「何ですか」
「小田切さんのデスクがあった場所は」
「窓際の角。今は別の社員が使っています」
「窓からは何が見えましたか」
「西の方ですね。天気がいいと雑木林の木のてっぺんが見えますよ」
鶫は礼を言って事務所を出た。
駅前を歩きながら手帳に書いた。
「小田切健一。退職届と転出届、同日提出。筆跡は本人。強制の痕跡なし。だが自発的すぎる。デスクの窓から西雑木林が見えた」
自発的すぎる消え方。計画された消失ではなく、消失そのものが計画的であるかのような印象。
EP016で小野寺の姉について考えたことを思い出した。「計画的に消えることと、静かに消えることは違う」。
小田切は静かに消えた。だがその静かさは、計画されていた。誰が計画したのか。本人か。それとも。
事務所に戻った。コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。
律が来ていた。事務所の入口に寄りかかっている。
「どうでした」
「退職届と転出届が同日だ。本人の筆跡。強制なし」
「完璧ですね」
「完璧だ。完璧すぎる」
「完璧すぎるのは、不自然ですか」
「人間は完璧に消えない。痕跡を残す。痕跡が残らないのは、痕跡を消す技術があるか、痕跡を残す暇がなかったか、どちらかだ」
律が腕を組んだ。
「あるいは、三番目の可能性。痕跡を残す気がなかった」
「残す気がない。つまり」
「もう戻らないと決めていた。戻らないなら、痕跡は要らないでしょう」
鶫はコーヒーを飲んだ。
戻らない。どこへ行ったのか分からないまま、戻らないと決めた人間。存在しない住所に向かって出ていった人間。
余白が広がっていく。