小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第24話「消えた元勤務先」

1,758文字 約4分

失踪者リストの七番目の人物は、小田切健一。三十四歳。独身。市内の会計事務所に勤務していた。二年前に転出届を提出し、転出先は千葉県船橋市の住所で、番地が存在しない。

 鶫は会計事務所を訪ねた。駅前のビルの三階。ガラスのドアに「高橋会計事務所」の金文字。

 所長の高橋は五十代の男で、丸い眼鏡をかけている。小田切について聞くと、高橋は眼鏡の位置を直した。左手で。右手はデスクの上に置いたまま動かない。

 嘘の前に片手だけ動くタイプだ。

「小田切くんは二年前に退職しました。退職届を受理して、有給消化して、それきりです」

「退職の理由は」

「一身上の都合。書面にはそう書いてありました」

「連絡は取れますか」

「取れません。退職後に一度電話しましたが、番号が変わっていました」

 鶫は退職届の写しを見せてもらえるか聞いた。高橋は少し渋ったが、探偵業届出証明書を見せると応じた。

 退職届。A4の用紙に手書き。「一身上の都合により、令和五年十月三十一日をもって退職いたしたく」。日付。署名。捺印。

 筆跡を見た。右下がりの癖。字画のバランスは良い。強い筆圧で書かれている。迷いのない字だ。

「この字は小田切さんの字ですか」

「小田切くんの字です。確認しました。うちは帳簿を手書きで記入してもらうことがあるので、筆跡は見慣れています」

「退職届の提出日を確認します」

「十月十五日です」

 鶫は手帳を開いた。小田切の転出届の提出日。令和五年十月十五日。

 同日だった。

 退職届と転出届を同じ日に提出している。朝に会計事務所で退職届を出し、その足で市役所に行って転出届を出した。あるいは逆順。いずれにしても、一日のうちに仕事を辞め、街を出る手続きを全て終わらせている。

「高橋さん。小田切さんは退職届を出した日、普段と変わった様子はありましたか」

 高橋が眼鏡を直した。また左手で。

「普通でした。いつも通り朝来て、退職届を出して、デスクを片付けて。荷物は段ボール一つ分。少ない人でしたから。午前中に全部済ませて、午後には帰りました」

「引き止めは」

「しました。有能な人でしたから。でも本人の意思が固くて。理由を聞いても『決めたことです』と」

 決めたこと。

 自発的だ。退職届は本人の筆跡。転出届も本人が提出。強制の痕跡はない。全てが自発的に見える。

 だが鶫はこの「自発的」の精度が気になった。

 人間が自発的に街を出るとき、痕跡はもっと雑になる。引き止める上司と揉める。荷物を取りに来る。友人に連絡する。退職後に年金や保険の手続きでやり取りが残る。

 小田切にはそれがなかった。退職届、転出届、携帯番号の変更。全てが一日で完了している。残留痕がない。振り返る隙がない。

 完璧に自発的。

 完璧すぎる。

「高橋さん。最後に一つ」

「何ですか」

「小田切さんのデスクがあった場所は」

「窓際の角。今は別の社員が使っています」

「窓からは何が見えましたか」

「西の方ですね。天気がいいと雑木林の木のてっぺんが見えますよ」

 鶫は礼を言って事務所を出た。

 駅前を歩きながら手帳に書いた。

 「小田切健一。退職届と転出届、同日提出。筆跡は本人。強制の痕跡なし。だが自発的すぎる。デスクの窓から西雑木林が見えた」

 自発的すぎる消え方。計画された消失ではなく、消失そのものが計画的であるかのような印象。

 EP016で小野寺の姉について考えたことを思い出した。「計画的に消えることと、静かに消えることは違う」。

 小田切は静かに消えた。だがその静かさは、計画されていた。誰が計画したのか。本人か。それとも。

 事務所に戻った。コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。

 律が来ていた。事務所の入口に寄りかかっている。

「どうでした」

「退職届と転出届が同日だ。本人の筆跡。強制なし」

「完璧ですね」

「完璧だ。完璧すぎる」

「完璧すぎるのは、不自然ですか」

「人間は完璧に消えない。痕跡を残す。痕跡が残らないのは、痕跡を消す技術があるか、痕跡を残す暇がなかったか、どちらかだ」

 律が腕を組んだ。

「あるいは、三番目の可能性。痕跡を残す気がなかった」

「残す気がない。つまり」

「もう戻らないと決めていた。戻らないなら、痕跡は要らないでしょう」

 鶫はコーヒーを飲んだ。

 戻らない。どこへ行ったのか分からないまま、戻らないと決めた人間。存在しない住所に向かって出ていった人間。

 余白が広がっていく。