小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第23話「帰らない犬」

1,366文字 約3分

依頼人は七十代の女性で、犬の首輪を両手で握りしめて事務所に来た。

「あの子が帰ってこないんです。散歩の途中でリードを引きちぎって走っていって」

「犬種は」

「柴犬です。オスの八歳。名前はゲン」

「走っていった方角は」

「西の方。雑木林の方向です」

 鶫は靴を履き替えた。散歩靴。犬の捜索は歩く仕事だ。

 雑木林の柵までは依頼人の自宅から徒歩十五分。住宅地を抜けて、畑の間の細い道を通り、雑木林の手前に出る。

 柵は金属製のフェンスで、高さは一・五メートル。「立入禁止」の看板が錆びている。

 柵の手前に、犬がいた。

 柴犬。茶毛。座っている。リードの切れ端が首輪から垂れている。リードのナイロンが噛み切られていた。犬の歯で噛み切るには相当の力が要るが、柴犬の咬合力なら可能だ。

 犬は鶫を見なかった。柵の向こうを見つめていた。

 吠えなかった。

 鶫はゆっくり近づいた。三メートル。二メートル。犬は動かない。耳が前を向いている。何かを聞いている。あるいは、何かを見ている。

「ゲン」

 依頼人が名前を呼んだ。犬は振り返らなかった。

「ゲン。帰ろう」

 犬の尾が低い位置にあった。恐怖か警戒。だが体は緊張していない。座った姿勢のまま、柵の向こうを見ている。

 鶫は柵の向こう側を見た。雑木林。楢と椚の木。落葉が積もっている。十一月末。葉がほとんど落ちて、林の中が見通せる。

 何も見えなかった。木と落葉と土。普通の林だ。

 だが犬は何かを見ている。犬の視覚は人間と異なる。色覚は劣るが、動体視力と暗所視力に優れる。また嗅覚は人間の一万倍から十万倍。犬が「見ている」のは、視覚ではなく嗅覚かもしれない。

 鶫はしゃがんだ。犬の目線の高さに自分の顔を持っていった。犬の瞳孔が開いている。光量は十分なのに瞳孔が開いている。興奮か、集中。

「おいで」

 鶫が手を差し出した。犬が初めて鶫を見た。瞳孔が戻った。尾が少しだけ上がった。

 犬が立ち上がった。鶫の手に鼻先を寄せた。湿った鼻先が手のひらに触れた。

「帰ろう」

 犬は鶫についてきた。柵から離れた。依頼人のほうに歩いていった。

 依頼人が犬を抱きしめた。犬は大人しくしていた。吠えなかった。帰り道も一度も吠えなかった。

 依頼人の自宅で、報酬を受け取った。

「ありがとうございます。この子、最近おかしかったんです。散歩で西の方に行きたがらなくなって。今日は急に走り出して」

「走り出して、柵の前で座り込んだ」

「ええ。不思議ですよね。何があったのかしら」

「犬は説明してくれませんからね」

 依頼人が苦笑した。

 事務所に戻った。コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。

 手帳に書いた。

 「ゲン(柴犬・8歳)。リード噛み切り。雑木林の柵前で座り込み。吠えず。柵の向こうを注視。瞳孔散大。帰宅後、雑木林方面への散歩を拒否」

 犬が柵の前で何を見ていたのか。確認できない。犬に聞けない。

 だがEP004以来の観察と一致する。犬が吠えないエリア。雑木林の近く。犬は何かを感じている。感じて、黙っている。吠えない。

 人間も同じだ。この街の住民は、何かを感じている。感じて、黙っている。声を出さない。

 律の祖父が書いた言葉が頭に残っている。「この街には声が届かない場所がある。だから声を出さない人間が集まる」

 犬も声を出さなくなっている。

 鶫はコーヒーを飲んだ。適温。適量。正常。

 犬の瞳孔が開いていた映像が、頭から消えなかった。