小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第22話「声が届かない場所」

1,438文字 約3分

律が事務所に段ボール箱を持ち込んだのは、十一月の最後の週だった。

 段ボールの側面に油性ペンで「じいちゃん 書斎」と書いてある。律の字は雑だが読める。

「祖父の遺品です。母親が物置から出してきて、俺に押しつけた」

「遺品整理を探偵事務所でやるな」

「広い場所がなくて。俺のアパート六畳ですから」

 律が箱を開けた。中身は古い手帳、ノート、新聞の切り抜き、写真。律の祖父は地元の郷土史家で、槻原家の分家筋にあたる人間だった。二十年前に他界している。

 鶫は自分の仕事をしていた。依頼書類の整理。だが律が手帳を一冊ずつめくる音が気になって、集中できなかった。古い紙のめくれる音は、情報の匂いがする。

「神崎さん。これ、見てもらえますか」

 律が手帳を差し出した。黒い革表紙。B6サイズ。ページが黄ばんでいる。

 開いた。万年筆のインク。崩れた字だが丁寧に書かれている。日記のようだが、日付が飛び飛びだ。

 最初のページ。「昭和六十一年 六月」。一九八六年。四十年近く前。

 読んだ。

 大半は日常の記録だった。天気、畑の様子、近所の出来事。だが途中から、同じフレーズが繰り返し現れた。

 「この街には声が届かない場所がある」

 三回。日記の中に三回出てくる。書かれた日付はバラバラだ。一九八六年六月、一九八七年十一月、一九八九年三月。

「声が届かない場所」

「そうです。じいちゃんが何度も書いてる。どの場所を指してるのかは書いてない」

 鶫は日記をもう一度読んだ。フレーズの前後の文脈を追った。

 一九八六年六月。「散歩中に雑木林の手前で立ち止まった。声が聞こえなくなった。風の音も、鳥の声も。この街には声が届かない場所がある。だから声を出さない人間が集まる」

 一九八七年十一月。「今年も引っ越しがあった。西の方。挨拶なし。声が届かない場所の近くに住んでいた人だ」

 一九八九年三月。「声が届かない場所のことを、誰にも話さないと決めた。話しても信じない。信じた人間がどうなるか、分からないから」

 鶫は日記を閉じた。

「律。お前の祖父は、この街の失踪について知っていたのか」

「知っていたと思います。直接的には書いてないけど、一九八七年の『引っ越し』は、俺が調べた失踪者リストと時期が重なるかもしれない」

「確認する。転出記録は過去五年分しか取れていないが、それ以前のものも市の保管庫にある」

「確認して、何が分かります?」

「パターンが五年ではなく四十年続いているかどうか」

 律が椅子に座り直した。足を組んだ。

「神崎さん。一つ聞いていいですか」

「何だ」

「このメモは証拠になりますか」

「ならない。個人の主観的記述だ。証拠能力はない」

「ですよね。証拠にはならない。でも地図にはなる」

「地図」

「声が届かない場所がどこなのか。じいちゃんが何を見て、何を感じて、それでも黙ったのか。それは証拠じゃないけど、方角を指している」

 鶫はコーヒーを淹れた。二人分。律の分は砂糖を入れた。律は甘いコーヒーを飲む。

「律。お前の祖父は、黙ったんだな」

「黙りました。誰にも話さないと決めた。八九年の三月に」

「なぜだ」

「話しても信じない。信じた人間がどうなるか分からないから。じいちゃんはそう書いてます」

 鶫は手帳を見た。三行のフレーズ。三つの年号。四十年前の郷土史家が、この街の異常に気づいていた。気づいて、黙った。

 黙る理由がある街。声を出さない人間が集まる街。犬すら吠えない街。

 鶫はコーヒーを飲んだ。八十五度。三分半。正常。

 だが「正常」という言葉の意味が、この街では少しずつ変わりつつあった。