鶫が市役所の住民課に足を運んだのは、十一月の終わりの、雲が低く垂れ込めた午後だった。
転出届は公開情報ではない。だが閲覧請求は法的に可能だ。探偵業届出証明書と本人確認書類を提出し、正当な調査目的を記した申請書を窓口に渡した。窓口の職員は書類を三回読み直してから、端末を操作した。
過去五年間の転出記録。槻ノ森市から他市区町村への転出を、月別・地区別に抽出した。
総数は八百三十二件。五年間で八百三十二人が槻ノ森市を離れている。人口規模から見て標準的な数字だ。
鶫は八百三十二件を事務所に持ち帰り、自分の依頼台帳と照合した。
コーヒーを淹れた。豆は二十グラム。湯温は八十五度。抽出時間は三分半。平常心。
照合の方法は単純だった。依頼台帳に載っている人名を、転出記録の中から検索する。
三件。EP001の佐藤キヨ。EP008の和菓子屋の遺族。EP010のジョガーの妻。この三人は既に確認済みだ。
次に、依頼台帳に載っていない転出者の中から、特定の条件に合うものを絞った。
条件一。転出届の提出日と、転出先への実際の移転日が同日であること。通常の引っ越しは届出と移転に数日の差がある。同日は急いでいる。
条件二。転出先住所が実在しないか、番地レベルで欠番であること。
条件三。転出後の連絡先が不通であること。
三つの条件を全て満たす転出は、十二件あった。
十二人。
鶫はコーヒーを飲んだ。苦い。正常な苦さ。
十二人の住所を地図にプロットした。槻ノ森市の地図。市役所のコピーに、赤いペンで丸を打った。
丸が集中していた。
西雑木林から五百メートル以内。十二人全員が、その範囲内に住所を持っていた。
鶫はペンを置いた。
五百メートル。西雑木林は市の西端にある。周囲は住宅地と、少しの農地。EP004-006で調べた「犬が吠えないエリア」と重なる。
偶然と呼ぶには密度が高すぎた。
律に電話した。
「十二人だ」
「何の?」
「過去五年で、この街を『静かに』出た人間。全員が転出届を提出し、全員の転出先が存在しない住所で、全員が西雑木林の近くに住んでいた」
律が三秒黙った。
「全員が。五百メートル以内に」
「そうだ」
「神崎さん。それ、偶然じゃないですよね」
「偶然ではない」
鶫は初めて、その言葉を口にした。偶然ではない。今まで「検証不能」と手帳に書いてきた。推測は証拠ではない。だが十二人という数字は、推測ではなく傾向だ。統計的に有意かどうかは別として、探偵の勘としては十分だ。
「リスト、見せてもらえますか」
「見せる。だが記事にするな。まだ」
「分かってますよ。俺だって情報屋の端くれです。生のデータを記事にしたら信用残高がゼロになる」
信用残高。律がいつ覚えた言葉か分からないが、鶫はその表現が嫌いではなかった。
電話を切った。
地図を見つめた。十二の赤い丸。西雑木林を中心とした五百メートルの円に、きれいに収まっている。
この街で何が起きているのか。
鶫はコーヒーの残りを飲み干した。冷めていた。冷めたコーヒーは不味い。いつも不味い。
だが冷めるまで地図を見ていた自分に、鶫は気づかなかった。