小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第2話「空き家の手紙」

4,903文字 約10分

十月七日。開業一週間。依頼は二件目だった。

 午前九時にドアが開き、男性が入ってきた。七十代前半。身長百六十五センチ前後。白髪を短く刈り込んでいる。背筋が伸びている。杖は不要。足取りにためらいがない。ただし靴の踵が不均一に減っている——右足を軸にする癖がある。元々体を使う仕事をしていた人間の減り方だ。

「神崎さん、でしたかな」

「はい。どうぞ」

 椅子を勧め、コーヒーを出した。八十五度、三分半。

 名前は堀田幸造。七十二歳。槻ノ森市西町三丁目在住。元造園業。妻と二人暮らし。

 依頼内容は、隣家の住人の件だった。

「隣の三浦さんがね、いなくなったんですよ」

「いなくなった」

「ええ。先週の金曜日までは普通に暮らしていたんです。朝、庭に出てきて植木に水をやっているのが見えた。それが土曜の朝になったら、家が空っぽでした」

 鶫はメモを取った。

「空っぽとは」

「カーテンがなくなっていて、家の中が見えたんです。家具が全部なくなっていた。テレビも棚も、何もかも。一晩で引っ越したとしか思えない。でも引っ越しのトラックなんて見ていませんし、音もしなかった。妻も聞いていません」

「三浦さんとはどの程度のお付き合いですか」

「もう十五年の隣人ですよ。家族ぐるみとは言いませんが、回覧板を渡して、ゴミ出しの日に挨拶して、台風のあとは互いの屋根を確認し合って。そういう、普通の隣人です」

「引っ越しの予告は」

「何もありません。前日まで何も言っていなかった。それどころか、来月の町内会の餅つき大会の話を先週したばかりでした。『杵は俺が持っていく』って言ってたんです」

 堀田の声が低くなった。怒りではない。困惑だ。十五年の隣人が、一言の挨拶もなく消えた。それが信じられない。

「警察には」

「行きました。『引っ越しでしょう。成人ですから、行き先を告知する義務はありませんよ』と。それはそうなんですが……」

 鶫は堀田の目を見た。困惑の奥に、もう一つの感情がある。それを言語化するのに迷っている。

「何か気になることが、他にありますか」

 堀田は少し黙った。コーヒーカップを両手で包んでいる。

「これが初めてじゃないんです」

「と言いますと」

「三年前にも、同じことがありました。西町二丁目の佐々木さん。やはり前触れなく引っ越した。その前は、五年前に東町の吉村さん。どちらも長年の住民で、引っ越しの挨拶がなかった」

「三件」

「少なくとも私が知る限りで。妻に聞いたら、他にも何件かあるかもしれないと」

 鶫はペンを止めた。

「堀田さん。率直に伺います。何を心配されていますか」

 堀田は窓の外を見た。事務所の窓からは雑居ビルの向かいの壁しか見えないが、堀田は遠くを見ているような目をしていた。

「この街は——静かすぎると思いません?」

 鶫は答えなかった。一週間前に、自分がまったく同じことを思ったことを、堀田に言う必要はなかった。

 依頼を受けた。報酬は成功報酬制。三浦の行き先が判明した時点で支払い。

 堀田が帰ったあと、鶫はコートを羽織って外に出た。

 西町三丁目。駅から徒歩十五分。住宅街の奥。築三十年ほどの一戸建てが並ぶ通り。街路樹の欅が色づき始めている。道路は掃き清められていて、落ち葉がほとんどない。

 三浦家。二階建て。白い外壁が少し黄ばんでいるが、手入れはされている。門扉は閉まっている。表札、が、ない。表札を留めていたネジ穴だけが残っている。

 門扉の郵便受けを覗いた。空。チラシの一枚もない。配達停止の手続きが取られている。引っ越しをした人間が取る、普通の手続きだ。

 隣家の堀田家との間に、低いブロック塀がある。塀越しに三浦家の庭が見えた。植木は剪定されている。雑草はない。庭の手入れは、最近までされていた形跡がある。

 鶫は家の周囲を歩いた。裏手に回る。裏口のドアは施錠されている。窓から中を覗くと、堀田の言う通り、家具はすべて撤去されていた。畳の部屋。何もない。壁にカレンダーの跡、日焼けしていない長方形、だけが残っている。

 表に戻り、反対側の隣家を訪ねた。チャイムを押す。四十代の女性が出てきた。

「すみません。隣の三浦さんの件でお話を伺いたいのですが。私は神崎と申します。探偵です」

 女性の表情が微かに変わった。変わり方が特殊だった。驚きではない。思い出したくないものを思い出したときの、わずかな硬直。

「三浦さんは引っ越されましたよ」

「いつ頃ですか」

「先週の、金曜日か、土曜日か。ちょっと覚えていません」

「引っ越しの荷物を運び出しているのを見ましたか」

「見ていません。気がついたら、いなくなっていて」

「三浦さんから引っ越しの挨拶は」

「ありませんでした」

 女性の口調は平坦だった。質問に答えてはいるが、それ以上のことを話す気はないようだった。目がわずかに左上に動く。記憶を探しているのではなく、言葉を選んでいる。

「十五年以上のお隣同士で、引っ越しの挨拶がないのは、不自然だとは思いませんでしたか」

「人にはいろいろ事情がありますから」

 女性はそう言って、ドアを閉めた。

 不自然だとは思わないのか。

 鶫は通りに戻った。

 次に市役所に向かった。住民異動届の確認。三浦の氏名と住所を告げると、窓口の職員は端末を操作し、数秒後に言った。

「三浦幸一さん。先週の木曜日に転出届が提出されています。転出先は、茨城県つくば市の住所です」

 転出届は本人が提出している。手続きは正規のものだ。転出先の住所もある。

 鶫は転出先の住所をメモした。

 市役所を出ると、商店街のベンチに座っている男がいた。

 綿貫律。パーカーにジーンズ。ショルダーバッグからカメラが覗いている。先週と同じ格好だ。

「あ、神崎さん」律が手を上げた。「猫の探偵さん」

「猫の探偵ではない」

「じゃあ今日は何の探偵ですか」

 鶫は律を無視して歩き出した。律が立ち上がってついてくる。

「引っ越し案件でしょう。堀田のじいちゃんの依頼」

 足が止まった。

「なぜ知っている」

「堀田さん、うちの取材先なんですよ。先月、庭の植木の記事を書かせてもらった。今朝電話がきて、『探偵に頼んだ』って。あと、三浦さんのことも聞いた」

「守秘義務がある」

「知ってますよ。でも堀田さんが自分で話してるんだから、俺が知ってるのは神崎さんのせいじゃないです。で、三浦さん、見つかりました?」

 鶫は答えを計量した。律は情報を持っている。先週の猫の件でも、街の情報に対する律のアクセスは鶫より広い。利用価値がある。

「転出届は出ていた。転出先は茨城。手続き上は正常な引っ越しだ」

「でも引っ越しのトラックは誰も見ていない」

「見ていない」

「一晩で家財道具を全部運び出したのに、隣人が気づかない。それ、普通ですか?」

「深夜に業者を使えば不可能ではない。静かに作業する引っ越し業者は存在する」

「存在しますけど、この街で夜中に大型トラックが通ったら、誰かしら気づきますよ。住宅街の道は狭いし。それに」

 律は声のトーンを変えた。軽口から、一段低い声。

「三浦さんだけじゃないんですよ」

「堀田さんから聞いた。佐々木、吉村」

「もっとある。俺がタイムスで三年取材してる間に、同じパターンで消えた住民が少なくとも七人。全員、長年の住民。全員、引っ越しの挨拶なし。全員、転出届は正常。転出先に連絡を取ると、そこにはもういない」

 鶫は律を見た。律の表情は軽口を言っているときと違っていた。目が笑っていない。

「追ったのか」

「三人分だけ。転出先の住所に手紙を出した。戻ってきた。宛先不明で。郵便局に確認したら、その住所に該当する建物が存在しないって言われた」

 存在しない住所への転出届。

 手続きは正規だが、行き先が実在しない。

「それを記事にしたのか」

「してない」律は肩をすくめた。「だって証拠がないでしょう。転出届が正常に出ている以上、引っ越しは引っ越しです。行き先が存在しないのは、まあ、記載ミスかもしれない。役所に問い合わせたら、『転出届の転出先住所は自己申告であり、行政が実在性を確認する義務はありません』だって」

 制度の盲点。転出届は本人の申告で完結する。行き先の住所が実在するかどうかを、誰も確認しない。

 鶫は考えた。

 七人。三年間で七人が、同じパターンで街を出ている。引っ越しの形式を取っているが、実質的には失踪だ。しかし事件性を問うには、何もない。暴力の痕跡はない。脅迫の証拠もない。本人が自発的に転出届を出し、自発的に去った。と、書類上はなっている。

「組織的な何かがある」

 鶫はそう言った。

 律は妙な顔をした。口を開き、閉じ、また開いた。

「……神崎さん。それは、そういう話なのかな」

「どういう意味だ」

「いや、組織的な証拠隠滅ってのは、筋は通るけど、俺はちょっと違う気がしてるんですよ。うまく言えないけど」

「うまく言えないなら、言わなくていい。私は証拠で話す」

 律は黙った。数秒後に、いつもの人懐っこい笑顔に戻った。

「はいはい。じゃあ証拠の話をしましょう。三浦さんの家、もう一回見に行きません? 俺、裏手の勝手口の鍵の型を知ってる」

「不法侵入だ」

「空き家ですよ。持ち主がいない家は空き家です。空き家の管理状況を確認するのは地域住民の義務、」

「詭弁だ」

「はい。詭弁です」

 鶫は律を五秒ほど見つめた。それから歩き出した。西町三丁目の方向に。

「ついてくるな」

「ついていきますよ」

 三浦家に戻った。今度は裏手に回り、裏口のドアを確認した。施錠されている。鶫は鍵を開けなかった。代わりに、裏口のドアの脇に設置された古い牛乳受けを覗いた。

 牛乳受けの中に、封筒が一通入っていた。

 白い封筒。宛名は「堀田幸造 様」。差出人の名前はない。切手も消印もない。誰かが直接入れたものだ。

「これは三浦さんの家なのに、宛名が堀田さん?」

 鶫は封筒を手に取った。封は閉じられていない。中に便箋が一枚。

 手書き。男性の字。

  堀田さんへ   急な引っ越しで挨拶もできず申し訳ありません。   事情があり、しばらく連絡が取れなくなります。   庭の植木は、できればそのままにしておいてください。   また会える日を楽しみにしています。                三浦幸一

 鶫は便箋を二度読んだ。

 手紙としては自然だ。急な引っ越しの詫び。連絡が取れなくなるという予告。植木への未練。再会の希望。

 だが牛乳受けに入っているということは、堀田にまだ届いていない。三浦は堀田に渡すつもりだったが、直接手渡せなかった。出発が急だったのか。それとも——会えなかったのか。

「持っていきますか」

「堀田さんに届ける。これは堀田さん宛ての手紙だ」

 堀田の家を訪ね、手紙を渡した。堀田は便箋を読み、長い間黙っていた。

「……三浦さんの字だ。間違いない」

「お心当たりのある『事情』はありますか」

「ありません。先週まで、普通だったんです。普通に笑って、普通に話して」

 堀田の目が赤くなった。泣いてはいない。泣く手前で堪えている。

「見つけてください。どこにいるのか、元気でいるのか。それだけでいい」

 鶫は頷いた。

 事務所に戻った。椅子に座り、メモを整理した。

 事実。三浦幸一は自発的に転出届を提出し、引っ越した。手紙の筆跡は本人のもの。暴力や脅迫の痕跡はない。手続き上、事件性はゼロだ。

 だが、転出先の住所は、律の調べた他の三人と同じく、実在しない可能性がある。確認が必要だ。

 そして、一晩で家財道具を全て運び出したのに、誰も音を聞いていない。

 鶫は窓の外を見た。夕日が沈みかけている。商店街の向こうに、雑木林の稜線。先週と同じ風景。

 律の言葉が頭に残っていた。

 「そういう話なのかな」

 どういう話だと言いたかったのだろう。組織的な証拠隠滅でないなら、何だ。

 鶫は首を振った。証拠で考える。感覚ではなく。

 明日、茨城の転出先住所を確認する。実在するかどうか。それが次の一手だ。

 スチール棚の引き出しを開け、律の名刺を取り出した。「ツキノ森タイムス 編集・ライター 綿貫律」。裏面の手書きの携帯番号。

 電話はしなかった。

 名刺を引き出しに戻し、コーヒーカップを洗った。スポンジで三回。水で流す。布巾で拭く。棚に戻す。

 事務所の窓から見える空が紺色に変わった。商店街の街灯が一つずつ点いていく。

 静かだ。

 この街は、いつも静かだ。