小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第19話「戻らない住人」

3,512文字 約8分

管理会社からの依頼だった。

「西御影台のアパート、203号室の住人と連絡が取れないんです。家賃も二ヶ月滞納で」

 西御影台。以前の依頼で調べたエリアだ。犬が吠えないエリア。西雑木林の麓。

 アパートに向かった。二階建て。築三十年。外壁のペンキが剥がれている。階段の手すりが錆びている。

 203号室。ドアの前に立った。ポストにチラシが溢れている。新聞は取っていない。

 管理会社の担当者が鍵を開けた。

「入りますよ」

 ドアが開いた。

 最初に匂いが来た。食べ物の匂い、だが腐敗臭ではない。古くなった油の匂い。換気されていない部屋の、澱んだ空気。

 中に入った。1K。六畳の居室とキッチン。

 誰もいなかった。

 だが、生活の痕跡が残りすぎていた。

 キッチン。シンクに食器が三枚。洗っていない。皿にはソースの痕跡。冷蔵庫を開けた。牛乳。卵。野菜。賞味期限は二ヶ月前。

 居室。テーブルの上に食べかけの食事があった。カップ麺の容器。割り箸が突き刺さったまま。中身は乾燥して固まっている。

 洗濯機。中に洗濯物が入ったまま。干されていない。

 ベッドは乱れている。枕がずれている。布団は掛けたまま。

「途中で止まってる」

 管理会社の担当者がぼそりと言った。

「食事の途中、洗濯の途中、寝起きの途中。全部が途中で止まってる」

 鶫は部屋の中を歩いた。

 引っ越しなら荷造りの痕跡がある。段ボール。ガムテープ。不用品の分別。何もない。

 夜逃げなら最低限の荷物を持つ。財布。スマートフォン。着替え。だがクローゼットには服が残っている。靴箱に靴が三足。鍵入れにスペアキーが残っている。

 転出届は、出されていた。管理会社が確認済み。

「転出届の転出先は」

「えーと、茨城県つくば市の住所です」

「番地まで」

「ありますけど」

「その番地が実在するか確認してもらえるか」

 管理会社の担当者がスマートフォンで検索した。三十秒。

「……あれ。番地が出ないですね。市と町名まではあるんですけど」

 鶫は手帳に書いた。「203号室。転出先:つくば市。番地欠番」

 テーブルの上の固まったカップ麺を見た。割り箸が突き刺さったまま。食べている途中で、席を立った。そして戻らなかった。

 戻らなかった。

 玄関を見た。靴箱の上に、鍵がある。部屋の鍵だ。鍵を置いて出ていった。

 鍵を持たずに出る人間は、帰る気がない。

 だが靴は残っている。服も残っている。財布は、見当たらない。スマートフォンも。最低限だけ持って出た。

 いや。最低限すら持ったかどうか分からない。財布とスマートフォンが見当たらないのは、ポケットに入っていた状態で出たからかもしれない。

「住人の名前は」

「木下陽介さん。三十一歳。会社員。独身」

 木下陽介。

 鶫は頭の中で過去の案件を参照した。この名前に覚えはない。

 だが、アパートを出て周囲を歩いたとき、気づいた。

 このアパートの隣のブロックに、見覚えのある家がある。EP001の依頼人。猫探しの老女。あの家だ。

 表札を確認した。表札がなかった。

 隣の住人に聞いた。

「ああ、お婆ちゃん。二ヶ月くらい前に引っ越したよ。突然だったね」

「引っ越し先は」

「知らない。挨拶もなかった。ある日、家が空になっていた」

 鶫の最初の依頼人。猫を探してほしいと言って事務所に来た老女。事件は解決した。猫は見つかった。

 その老女が、消えた。

 静かに。荷造りの痕跡もなく。

 事務所に戻った。依頼台帳を開いた。EP001。猫探し。依頼人:佐藤キヨ。七十八歳。住所は、西御影台。

 電話番号にかけた。「おかけになった電話番号は現在使われておりません」。

 消えた。

 鶫は台帳を見つめた。最初の依頼人が消えた。猫探しを解決した後に。

 解決した事件の依頼人が、消える。

 これは、パターンなのか。

 偶然なのか。

 コーヒーを淹れる気力がなかった。水を飲んだ。冷たい水。

 手帳に書いた。

 「EP001依頼人・佐藤キヨ。引っ越し。時期は約二ヶ月前。行き先不明。最初の依頼人が消えた」

 窓の外。西の方角。雑木林の稜線が夕日に黒く浮かんでいる。

 この街では、見た者は消える。

 律のじいちゃんの言葉が頭をよぎった。「この街には声が届かない場所がある。だから声を出さない人間が集まる」

 声を出さない人間が集まる。そして、静かに消えていく。

 静かすぎる街。