小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第17話「合わない帳簿」

3,781文字 約8分

依頼人は四十代の女性だった。

 名前は藤井。地元NPO「槻ノ森みらい創生会」の事務局員。寄付金の使途に不審な点があるという相談。

「理事長が、帳簿を触ってるんです。私が入力した数字が、翌日に変わっていることがある」

「具体的に」

「先月の寄付金の総額が、私の記録では百二十万だった。でも理事長が出した月次報告では九十八万になっていた。差額の二十二万がどこに消えたか分からない」

 会計不正。額は小さい。だが繰り返されているなら、総額は膨らむ。

「過去の月次報告と、あなたの記録の差額を全部出せるか」

「出せます。USBに入れてきました」

 几帳面な事務局員だ。データを受け取った。

 二日間で分析した。過去一年分の月次報告と入力記録の照合。差額は合計で百四十七万円。毎月十万から二十万の範囲で、不規則に差額が発生している。

 流用先を推定する。理事長の個人口座の入出金記録は入手できない。だが、NPOの経費精算に不自然な支出がある。「研修費」「視察旅費」「会議室使用料」。領収書は存在するが、研修も視察も実施された記録がない。

 架空経費。理事長が架空の経費を計上して、差額を個人に還流させている。

 動機を推定する。理事長の名前を調べた。槻ノ森市の名士。不動産業。地元の商工会の幹事。信用調査会社のデータベースを確認した。律に聞いた。

「理事長の五十嵐。心当たりあるか」

「ありますよ。去年、不動産投資で結構やられたって噂。表には出てないけど」

 投資の損失。個人の借金を、NPOの寄付金で穴埋めしている。

 宇津木に連絡した。

「宇津木さん。NPOの会計不正。証拠は揃ってる。刑事告発するなら」

「やってくれ。こういう事件は助かる」

「こういう事件?」

「説明がつく事件だ。動機がある。証拠がある。逮捕できる。この街で、そういう事件は意外と少ない」

 宇津木の言い方が引っかかった。

 告発資料を整えて、藤井に渡した。報酬を受け取った。

 案件は終了、のはずだった。

 律が事務所に来た。例によって予告なしに。

「NPOの件、記事にしていいですか」

「証拠は渡さないが、概要なら構わない」

「ありがとうございます。ところで、あのNPOの事業報告書、見ました?」

「会計の部分は見た」

「会計じゃなくて、事業内容の方。『地域住民の移住支援事業』ってのがあるんですよ」

 移住支援。

 律がタブレットを見せた。NPOの事業報告書。「移住支援事業」のページ。

「過去三年で二十四世帯の移住を支援したって書いてある。移住先は首都圏、関西、北海道」

「普通だな」

「普通です。でもリストの中に三件、移住先の住所が、欠番なんですよ」

「欠番」

「住所が存在しない。番地まで特定しようとすると、該当なしになる。これ、例のパターンと同じです」

 例のパターン。実在しない住所への転出。EP003以降、何度も遭遇しているパターン。

「NPOが、移住支援として、存在しない住所への転出を手助けしている?」

「断定はできません。帳簿の操作と移住支援が同じ理事長の管轄だから、意図的に操作した可能性はある。でも」

「でも?」

 律が言い淀んだ。珍しい。

「三件の欠番の世帯。全部、NPOに移住相談に来る前から、引っ越しの準備をしてたらしいんですよ。NPOが誘導したわけじゃない。住民が自分から来て、自分から消えた。NPOは、手続きを手伝っただけ」

「手続きを手伝った。存在しない住所への転出を」

「理事長が気づいていたかどうかも分からない。帳簿操作に忙しくて、移住支援の細かい住所なんか確認してなかったかもしれない」

 鶫は手帳を開いた。

 「NPO移住支援。24世帯中3世帯が欠番住所。住民側の自発的行動。NPOは媒介のみ?」

 宇津木に電話した。

「NPOの会計不正の件は進めてくれ。それとは別に、移住支援のリストを確認してほしい。住所に欠番があるかもしれない」

 宇津木が沈黙した。三秒。

「神崎。その件は、放っておけ」

「なぜだ」

「放っておけ。頼むから」

 宇津木の声が、初めて、強かった。怒りではない。懇願に近い。

「……分かった。今は」

「ありがとう」

 電話を切った。

 律が事務所の入り口に寄りかかっていた。聞いていたらしい。

「宇津木さん、止めましたか」

「止めた。強く」

「ですよね。あの人が本気で止めるのは、掘ったらまずい話のときだけですよ」

 掘ったらまずい話。

 会計不正は解決した。説明がつく事件。動機があり、証拠があり、逮捕できる。

 だが、帳簿の裏に、もう一つの帳簿がある。移住支援のリスト。欠番の住所。消える住民。

 そちらには、説明がつかない。

 コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。苦味の中に、また、あの名前のつかない後味がある。

 この街の帳簿には、常に空白の行がある。