事務所のインターホンが鳴った。予約はない。
モニターを見た。三十代後半の女性。黒いコート。髪を短く切っている。姿勢がいい。靴はフラットシューズだが、歩き方は踵から着地する訓練を受けた人間のもの。
見覚えがあった。
ドアを開けた。
「久しぶり、神崎」
小野寺明日香。警視庁刑事部捜査一課。鶫が退職する前の同僚。後輩にあたる。
「小野寺。何年ぶりだ」
「三年。あんたが辞めてから。入っていい?」
「仕事なら」
「仕事よ。個人的な」
事務所に通した。応接用の椅子は来客用と自分用で革の質が違う。来客用のほうがいい革を使っている。律に「見栄だ」と言われた。見栄ではない。椅子の質で報酬の相場を暗示している。
コーヒーを出した。小野寺は砂糖もミルクも入れなかった。三年前と同じだ。
「姉が行方不明なの」
姉。小野寺には七つ上の姉がいると聞いたことがある。結婚して、子どもがいて、都内のどこかに住んでいた。
「行方不明。いつから」
「三ヶ月前。連絡がつかなくなった。自宅を訪ねたらもぬけの殻。荷物はほとんどない。転出届は出されていた」
「転出先は」
「長野県の住所。確認したら、実在する住所だった。でも行ってみたら、姉はそこにいなかった」
「実在する住所に転出届を出して、そこにいない」
「そう。警察に相談したけど、転出届が出ている以上は事件性がないと言われた。自分の職場に相談するのも気が引けて」
「それで俺に」
「あんたなら引き受けてくれると思った」
鶫は手帳を開いた。
「姉の名前、年齢、最後に連絡が取れた日、その時の会話の内容。全部話してくれ」
小野寺が話した。
姉、小野寺香織。四十四歳。夫あり。子ども一人。夫は会社員。最後の連絡は三ヶ月前の電話。「元気?」「元気よ」。特に変わった様子はなかった。
翌週から電話がつながらなくなった。
鶫は三日で調べた。
香織の自宅(都内)の管理会社に確認。退去済み。退去の手続きは香織本人が行っている。本人確認書類の提示あり。強制退去ではない。
転出先の長野の住所。実在するアパート。管理会社に確認。香織名義の契約はない。転出届の住所は、ダミー。
ダミーの転出先。だが事件性はない。本人が自発的に退去し、自発的に転出届を出している。
鶫はもう一つのルートを調べた。香織の夫。
夫に連絡した。出なかった。三回かけて出なかった。
会社に電話した。「小野寺さんは先月退職されました」。
夫も消えている。
だが、消え方が違う。夫は退職後、実家(福岡)に戻ったことが確認できた。実家に電話した。
「息子は帰ってきましたよ。離婚したそうで」
離婚。
鶫は小野寺に報告した。事務所で。コーヒーを二杯目。
「姉さんは計画的に消えている。転出届を自分で出して、自宅を退去して、携帯を解約している。夫とは離婚している。意図的な失踪だ」
「なぜ」
「夫の実家に確認した。離婚の理由は、DV」
小野寺の顔が動かなかった。だが、手が動いた。コーヒーカップの取っ手を握る力が変わった。
「DVの事実は」
「夫の母親が『息子が手を上げていたのは知っている。止められなかった』と言った。姉さんは子どもを連れて計画的に逃げた。転出届はダミー。本当の居場所を隠すための手段だ」
「じゃあ姉は」
「生きている。安全な場所にいる。たぶん。居場所を突き止めることはできると思う。だが」
「だが?」
「突き止めてどうする。姉さんは隠れたくて隠れている。居場所を妹に教えたら、妹は刑事だ。正義感が強い。夫を追い詰めるかもしれない。そうすると」
「姉の居場所がバレる」
「そうだ。姉さんが安全でいるためには、今の状態がベストだ。誰にも居場所を知られていない状態」
小野寺が黙った。長い沈黙。
「……私にも教えないほうがいい?」
「それは小野寺が決めることだ。ただ」
「ただ?」
「計画的に消えることと、静かに消えることは違う。姉さんは計画的に消えた。自分の意志で。理由があって。これは失踪じゃない。避難だ」
小野寺が目を閉じた。五秒。開けた。
「分かった。居場所は、調べないで。姉が安全だということだけ分かればいい」
「了解」
「報酬は」
「要らない。元同僚だ」
「あんたが辞めた本当の理由、まだ聞いてないけど」
鶫はコーヒーを飲んだ。苦い。
「いつか話す」
「嘘つき」
小野寺が笑った。三年前と同じ笑い方。
小野寺が帰った後、事務所に一人残った。
手帳に書いた。
「計画的失踪。DV回避。本人の意志。この街の失踪は、どちらだ」
計画的に消える人間はいる。理由があって消える。
だがこの街の失踪者たちは、理由が見えない。荷造りもしない。連絡も断たない。ただ、静かに消える。
静かに消えることと、計画的に消えることは違う。
窓の外。槻ノ森の街並み。静かだ。
いつも通り、静かすぎる。