依頼は大学からだった。
槻ノ森大学。文学部の民俗学研究室。准教授の水野が電話をかけてきた。
「古文書の鑑定を、いえ、鑑定そのものは専門家に出すんですが。その前に、出所を調べてほしいんです」
大学に行った。キャンパスは街の北西。雑木林に隣接している。
研究室。書架に囲まれた狭い部屋。水野は四十代の細身の男で、眼鏡のフレームが太い。
「これです」
テーブルの上に、ガラスケースに入った紙がある。和紙。黄ばんでいる。墨の文字。
「江戸期の文書、と主張されています。この地域の地誌。槻ノ森の名の由来、周辺の地形、信仰について書かれている」
「どこで見つかった」
「研究室の書庫です。三十年以上前に寄贈された資料の中に紛れていた。寄贈者は、」
「誰」
「田所春三。当時の民俗学教授。一九七五年に退官しています。既に故人です」
鶫はガラスケース越しに文書を観察した。
和紙の質。墨の色。文字の形。素人目にも二種類の筆跡があった。
「筆跡が違う箇所がある」
「お気づきですか。そうなんです。前半と後半で筆跡が明らかに異なる。前半は江戸後期の書体の特徴を持っています。後半は、」
「近代の筆跡」
「はい。鑑定に出す前の私の推測では、後半部分は昭和以降に加筆されたものです」
「つまり、前半は本物。後半は偽物」
「偽物というか、後世の加筆。前半の地誌に、誰かが後から書き足した」
「書き足した内容は」
水野がコピーを出した。後半部分の翻刻。
鶫は読んだ。
地誌の本文は地形の記述で終わっている。加筆部分は、別の話だった。
「『西ノ杜ノ奥ニ入リシ者、戻ラズ。声モ届カズ。犬モ吠エズ。サレド死セルニアラズ。タダ、去リテ還ラヌノミ』」
去りて還らぬのみ。
鶫は読み返した。三回。
「この加筆部分を書いたのが田所教授だと」
「推測です。田所は一九七〇年代にこの地域のフィールドワークをしていた。槻ノ森の民俗について複数の論文を書いています。彼がこの古文書を入手し、自分の調査メモを、あろうことか原本に書き足した可能性がある」
「研究者としては論外だな」
「論外です。だから問題になっている。この文書が学会に出れば、田所の評価が崩れる。逆に、加筆部分が田所の独自調査に基づくものなら、」
「一九七〇年代にも同じ現象が起きていたことになる」
水野が頷いた。
「森に入った者が戻らない。声が届かない。犬が吠えない。もしこれが田所の観察記録なら」
「五十年前から同じことが起きている」
鶫は水野に田所の他の資料がないか確認した。退官時に書庫に残された段ボール箱が三つ。未整理。水野は開けたことがないと言った。
「開けてもいいか」
「どうぞ。ただし、資料は持ち出さないでください」
段ボール三箱。中身はフィールドノート、写真、地図。一九七〇年代の調査記録。
鶫はノートを一冊ずつ確認した。
田所のフィールドノートは几帳面だった。日付、場所、天候、聞き取り内容。地域の老人からの口承を記録している。
一冊のノートに、マーカーで印がつけてあるページがあった。
「十月十五日。西ノ杜の入口にて。案内役の老人曰く、『ここより先は行かぬ方がよい。行った者は帰らぬ。されど死んだとは思うておらぬ。ただ、行ったきりになる』」
行ったきりになる。
古文書の加筆部分と同じ内容だ。田所は聞き取りの結果を、古文書に書き足した。研究者としては不適切だが、書き足したかった理由は、これが「自分だけの発見」ではないことを証明したかったからだ。
江戸期の文書にも同じことが書いてある。自分の調査でも同じ証言が得られた。二つを一つの文書に統合したかった。不器用な方法で。
「水野先生。この文書、大学の中だけで処理してもらえますか。外に出さないほうがいい」
「なぜ」
「田所教授の名誉の問題ではなく。この内容が、公になると、面倒なことになる可能性がある」
「面倒?」
鶫は答えなかった。
この街で「森に入った者は戻らない」という話が広まれば、何が起きるか。騒ぎになるか。いや、この街では騒ぎにならないだろう。誰も見ないから。誰も信じないから。
だが、外からの目を引く可能性がある。記者。研究者。オカルト雑誌。
「分かりました。内部の研究会で処理します」
大学を出た。キャンパスの端から、雑木林が見えた。秋の木立。葉が色づいている。
事務所に戻った。律に連絡した。
「律。お前の祖父の収集記録に、一九七〇年代の田所春三という研究者の名前はあるか」
律が十秒黙った。
「……あります。じいちゃんのメモの中に。『田所教授。大学の人。森のことを調べている。深入りしすぎている。心配だ』」
「深入りしすぎている」
「じいちゃんはその後、田所教授と会ったメモを残してます。『教授に話した。これ以上は調べるなと。教授は聞かなかった。翌月、教授は退官した』」
退官。一九七五年。田所は自発的に退官したのか。それとも、。
「律。田所教授は退官後、どこに行った」
「分かりません。じいちゃんのメモにはそこで終わってます。……もしかしたら」
「もしかしたら、何だ」
「転出届を出して、実在しない住所に行ったかもしれない」
余白。
五十年前からの余白が、積み重なっている。
コーヒーを淹れた。今日は少し長めに抽出した。四分。苦みが強い。
手帳に書いた。「田所春三。1970年代。森の調査。深入り→退官。行き先不明」
行き先不明。
この街のいつものパターンだ。