小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第14話「存在しない筆跡」

2,163文字 約5分

依頼は大学からだった。

 槻ノ森大学。文学部の民俗学研究室。准教授の水野が電話をかけてきた。

「古文書の鑑定を、いえ、鑑定そのものは専門家に出すんですが。その前に、出所を調べてほしいんです」

 大学に行った。キャンパスは街の北西。雑木林に隣接している。

 研究室。書架に囲まれた狭い部屋。水野は四十代の細身の男で、眼鏡のフレームが太い。

「これです」

 テーブルの上に、ガラスケースに入った紙がある。和紙。黄ばんでいる。墨の文字。

「江戸期の文書、と主張されています。この地域の地誌。槻ノ森の名の由来、周辺の地形、信仰について書かれている」

「どこで見つかった」

「研究室の書庫です。三十年以上前に寄贈された資料の中に紛れていた。寄贈者は、」

「誰」

「田所春三。当時の民俗学教授。一九七五年に退官しています。既に故人です」

 鶫はガラスケース越しに文書を観察した。

 和紙の質。墨の色。文字の形。素人目にも二種類の筆跡があった。

「筆跡が違う箇所がある」

「お気づきですか。そうなんです。前半と後半で筆跡が明らかに異なる。前半は江戸後期の書体の特徴を持っています。後半は、」

「近代の筆跡」

「はい。鑑定に出す前の私の推測では、後半部分は昭和以降に加筆されたものです」

「つまり、前半は本物。後半は偽物」

「偽物というか、後世の加筆。前半の地誌に、誰かが後から書き足した」

「書き足した内容は」

 水野がコピーを出した。後半部分の翻刻。

 鶫は読んだ。

 地誌の本文は地形の記述で終わっている。加筆部分は、別の話だった。

「『西ノ杜ノ奥ニ入リシ者、戻ラズ。声モ届カズ。犬モ吠エズ。サレド死セルニアラズ。タダ、去リテ還ラヌノミ』」

 去りて還らぬのみ。

 鶫は読み返した。三回。

「この加筆部分を書いたのが田所教授だと」

「推測です。田所は一九七〇年代にこの地域のフィールドワークをしていた。槻ノ森の民俗について複数の論文を書いています。彼がこの古文書を入手し、自分の調査メモを、あろうことか原本に書き足した可能性がある」

「研究者としては論外だな」

「論外です。だから問題になっている。この文書が学会に出れば、田所の評価が崩れる。逆に、加筆部分が田所の独自調査に基づくものなら、」

「一九七〇年代にも同じ現象が起きていたことになる」

 水野が頷いた。

「森に入った者が戻らない。声が届かない。犬が吠えない。もしこれが田所の観察記録なら」

「五十年前から同じことが起きている」

 鶫は水野に田所の他の資料がないか確認した。退官時に書庫に残された段ボール箱が三つ。未整理。水野は開けたことがないと言った。

「開けてもいいか」

「どうぞ。ただし、資料は持ち出さないでください」

 段ボール三箱。中身はフィールドノート、写真、地図。一九七〇年代の調査記録。

 鶫はノートを一冊ずつ確認した。

 田所のフィールドノートは几帳面だった。日付、場所、天候、聞き取り内容。地域の老人からの口承を記録している。

 一冊のノートに、マーカーで印がつけてあるページがあった。

 「十月十五日。西ノ杜の入口にて。案内役の老人曰く、『ここより先は行かぬ方がよい。行った者は帰らぬ。されど死んだとは思うておらぬ。ただ、行ったきりになる』」

 行ったきりになる。

 古文書の加筆部分と同じ内容だ。田所は聞き取りの結果を、古文書に書き足した。研究者としては不適切だが、書き足したかった理由は、これが「自分だけの発見」ではないことを証明したかったからだ。

 江戸期の文書にも同じことが書いてある。自分の調査でも同じ証言が得られた。二つを一つの文書に統合したかった。不器用な方法で。

「水野先生。この文書、大学の中だけで処理してもらえますか。外に出さないほうがいい」

「なぜ」

「田所教授の名誉の問題ではなく。この内容が、公になると、面倒なことになる可能性がある」

「面倒?」

 鶫は答えなかった。

 この街で「森に入った者は戻らない」という話が広まれば、何が起きるか。騒ぎになるか。いや、この街では騒ぎにならないだろう。誰も見ないから。誰も信じないから。

 だが、外からの目を引く可能性がある。記者。研究者。オカルト雑誌。

「分かりました。内部の研究会で処理します」

 大学を出た。キャンパスの端から、雑木林が見えた。秋の木立。葉が色づいている。

 事務所に戻った。律に連絡した。

「律。お前の祖父の収集記録に、一九七〇年代の田所春三という研究者の名前はあるか」

 律が十秒黙った。

「……あります。じいちゃんのメモの中に。『田所教授。大学の人。森のことを調べている。深入りしすぎている。心配だ』」

「深入りしすぎている」

「じいちゃんはその後、田所教授と会ったメモを残してます。『教授に話した。これ以上は調べるなと。教授は聞かなかった。翌月、教授は退官した』」

 退官。一九七五年。田所は自発的に退官したのか。それとも、。

「律。田所教授は退官後、どこに行った」

「分かりません。じいちゃんのメモにはそこで終わってます。……もしかしたら」

「もしかしたら、何だ」

「転出届を出して、実在しない住所に行ったかもしれない」

 余白。

 五十年前からの余白が、積み重なっている。

 コーヒーを淹れた。今日は少し長めに抽出した。四分。苦みが強い。

 手帳に書いた。「田所春三。1970年代。森の調査。深入り→退官。行き先不明」

 行き先不明。

 この街のいつものパターンだ。