律が事務所に来るなり、封筒をテーブルに置いた。
「脅迫状です」
「誰宛の」
「俺宛の」
封筒は白い。宛名は手書き。「綿貫律様」。切手は普通切手。消印は市内。
中身を出した。便箋一枚。
「記事を取り消せ。さもなくば、お前の店に火をつける」
鶫は読み返した。「お前の店」。律は店を持っていない。タイムスの編集室は自宅の一部だ。店という表現は、脅迫者が律の実態を正確に把握していない証拠。
「心当たりは」
「ある。先月のタイムスに載せた記事。商店街の居酒屋『いそべ』の衛生管理についての記事。厨房の排水溝が詰まってて、近隣に匂いが漏れてるって。写真つき」
「それで恨みを買った」
「みたいですね」
鶫は封筒と便箋を調べた。指紋は取れない、手袋をしている可能性が高い。だが便箋の種類は一般的なコクヨのもの。百均でも売っている。
「居酒屋の店主に会いに行く」
「一緒に行っていいですか」
「来るな。俺が行く」
居酒屋「いそべ」。商店街の端。夜は営業しているが、昼は閉まっている。裏口に回った。
店主は五十代の男性。顔が赤い。酒飲みの顔だ。
「何の用だ」
「神崎探偵事務所の神崎です。先月のタイムスの記事について、」
「あの記事か。あんなもん、嘘っぱちだ。うちの厨房はきれいにしてる」
「記事の真偽はタイムスの問題です。私が聞きたいのは別のことです。タイムスの編集者に脅迫状が届きました」
店主の顔が変わった。一瞬だけ。すぐに戻した。だが遅い。
「知らん」
「便箋はコクヨのA罫。文房具屋かコンビニで売っている。あなたの店の横にコンビニがあります」
「だから何だ。コクヨの便箋なんて誰でも持ってる」
「持ってます。でも脅迫状に『お前の店に火をつける』と書いた人間は、タイムスの編集室を店だと思い込んでいる。律が自宅で編集していることを知らない。つまり、タイムスの実態を知らない近隣の人間」
店主が黙った。
「記事で批判されたことに怒るのは理解できます。だが脅迫は犯罪です。これ以上続けるなら、警察に届けます」
「……もうしない。もうしない、だから、」
「記事の取り消しは約束できません。ただし、排水溝の修理をすれば、律に次の記事で改善を報告するよう伝えることはできます」
店主は渋い顔をしたが、頷いた。
事務所に戻った。律が待っていた。
「片付いた。居酒屋の店主だ。排水溝の記事で逆恨み」
「予想通りです。ありがとうございます、神崎さん」
「で、律。一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前の情報誌、タイムス。あれは表の仕事だ。裏の仕事もあるだろう」
律の手が止まった。コーヒーカップを持ち上げかけた手。三秒。
「……裏、ですか」
「お前は情報を売っている。タイムスに載せない情報を、金で。個人の信用情報、不動産の裏事情、近隣トラブルの仲裁に使える材料。違うか」
律が笑った。いつもの軽い笑い方。だが目が笑っていなかった。
「さすが元刑事ですね」
「否定しないのか」
「しません。やってます。情報の売買。悪いことだとは思ってないんで」
「法的にはグレーだ」
「グレーです。限りなく白に近いグレー。個人情報保護法に抵触しない範囲で、公開情報の二次利用と分析。依頼があれば特定の人物の行動パターンを公開情報からプロファイリング。合法です。たぶん」
「たぶん」
「裁判で争ったことがないので、確定していないだけです」
鶫はコーヒーを淹れた。八十五度。三分半。律の分も。
「信用できるか」
「信用する必要はないですよ。使ってください」
「使う?」
「俺の情報網を。俺は情報を持ってます。この街の人間関係、不動産の動き、誰がいつ引っ越したか、誰がいつ消えたか。神崎さんが探偵の仕事をするなら、俺の情報は役に立つ」
「信用しなくていい、使えと」
「そういうことです。信用と利用は別の話。神崎さんもそうでしょう? 俺を信用してないけど、俺の情報は使ってる」
否定できなかった。
律の情報は正確だ。ジョガーの件も、嘘の手紙の件も、律が持ってきた情報が起点だった。信用はしていない。だが利用はしている。
「一つ聞く。お前が情報を売る相手に、この街の消えた人間について聞いてきた奴はいるか」
律がコーヒーを飲んだ。ゆっくりと。
「います。二人。一人は不動産屋。空き部屋の処理で困ってた。もう一人は、」
「もう一人は」
「宇津木署長です」
鶫の手が止まった。
「宇津木が、お前に情報を買いに来たのか」
「買いに来た、というより、確認しに来た。『この住所の人間はまだいるか』と。名前は言わなかった。住所だけ。その住所の人間は、翌週にいなくなりました」
余白。
解決した事件の向こうに、また余白が広がる。
コーヒーが冷めた。今日は飲み干す前に冷めた。