小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第13話「燃えない脅迫状」

1,886文字 約4分

律が事務所に来るなり、封筒をテーブルに置いた。

「脅迫状です」

「誰宛の」

「俺宛の」

 封筒は白い。宛名は手書き。「綿貫律様」。切手は普通切手。消印は市内。

 中身を出した。便箋一枚。

 「記事を取り消せ。さもなくば、お前の店に火をつける」

 鶫は読み返した。「お前の店」。律は店を持っていない。タイムスの編集室は自宅の一部だ。店という表現は、脅迫者が律の実態を正確に把握していない証拠。

「心当たりは」

「ある。先月のタイムスに載せた記事。商店街の居酒屋『いそべ』の衛生管理についての記事。厨房の排水溝が詰まってて、近隣に匂いが漏れてるって。写真つき」

「それで恨みを買った」

「みたいですね」

 鶫は封筒と便箋を調べた。指紋は取れない、手袋をしている可能性が高い。だが便箋の種類は一般的なコクヨのもの。百均でも売っている。

「居酒屋の店主に会いに行く」

「一緒に行っていいですか」

「来るな。俺が行く」

 居酒屋「いそべ」。商店街の端。夜は営業しているが、昼は閉まっている。裏口に回った。

 店主は五十代の男性。顔が赤い。酒飲みの顔だ。

「何の用だ」

「神崎探偵事務所の神崎です。先月のタイムスの記事について、」

「あの記事か。あんなもん、嘘っぱちだ。うちの厨房はきれいにしてる」

「記事の真偽はタイムスの問題です。私が聞きたいのは別のことです。タイムスの編集者に脅迫状が届きました」

 店主の顔が変わった。一瞬だけ。すぐに戻した。だが遅い。

「知らん」

「便箋はコクヨのA罫。文房具屋かコンビニで売っている。あなたの店の横にコンビニがあります」

「だから何だ。コクヨの便箋なんて誰でも持ってる」

「持ってます。でも脅迫状に『お前の店に火をつける』と書いた人間は、タイムスの編集室を店だと思い込んでいる。律が自宅で編集していることを知らない。つまり、タイムスの実態を知らない近隣の人間」

 店主が黙った。

「記事で批判されたことに怒るのは理解できます。だが脅迫は犯罪です。これ以上続けるなら、警察に届けます」

「……もうしない。もうしない、だから、」

「記事の取り消しは約束できません。ただし、排水溝の修理をすれば、律に次の記事で改善を報告するよう伝えることはできます」

 店主は渋い顔をしたが、頷いた。

 事務所に戻った。律が待っていた。

「片付いた。居酒屋の店主だ。排水溝の記事で逆恨み」

「予想通りです。ありがとうございます、神崎さん」

「で、律。一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「お前の情報誌、タイムス。あれは表の仕事だ。裏の仕事もあるだろう」

 律の手が止まった。コーヒーカップを持ち上げかけた手。三秒。

「……裏、ですか」

「お前は情報を売っている。タイムスに載せない情報を、金で。個人の信用情報、不動産の裏事情、近隣トラブルの仲裁に使える材料。違うか」

 律が笑った。いつもの軽い笑い方。だが目が笑っていなかった。

「さすが元刑事ですね」

「否定しないのか」

「しません。やってます。情報の売買。悪いことだとは思ってないんで」

「法的にはグレーだ」

「グレーです。限りなく白に近いグレー。個人情報保護法に抵触しない範囲で、公開情報の二次利用と分析。依頼があれば特定の人物の行動パターンを公開情報からプロファイリング。合法です。たぶん」

「たぶん」

「裁判で争ったことがないので、確定していないだけです」

 鶫はコーヒーを淹れた。八十五度。三分半。律の分も。

「信用できるか」

「信用する必要はないですよ。使ってください」

「使う?」

「俺の情報網を。俺は情報を持ってます。この街の人間関係、不動産の動き、誰がいつ引っ越したか、誰がいつ消えたか。神崎さんが探偵の仕事をするなら、俺の情報は役に立つ」

「信用しなくていい、使えと」

「そういうことです。信用と利用は別の話。神崎さんもそうでしょう? 俺を信用してないけど、俺の情報は使ってる」

 否定できなかった。

 律の情報は正確だ。ジョガーの件も、嘘の手紙の件も、律が持ってきた情報が起点だった。信用はしていない。だが利用はしている。

「一つ聞く。お前が情報を売る相手に、この街の消えた人間について聞いてきた奴はいるか」

 律がコーヒーを飲んだ。ゆっくりと。

「います。二人。一人は不動産屋。空き部屋の処理で困ってた。もう一人は、」

「もう一人は」

「宇津木署長です」

 鶫の手が止まった。

「宇津木が、お前に情報を買いに来たのか」

「買いに来た、というより、確認しに来た。『この住所の人間はまだいるか』と。名前は言わなかった。住所だけ。その住所の人間は、翌週にいなくなりました」

 余白。

 解決した事件の向こうに、また余白が広がる。

 コーヒーが冷めた。今日は飲み干す前に冷めた。