依頼はドラッグストアの店長からだった。
「万引きが止まらないんです。同じ人物。週に二回。化粧品を」
商店街の中ほど。パステルカラーの看板のドラッグストア。店長は三十代の男性。声がおとなしい。この街の人間は声がおとなしい。
「防犯カメラは」
「あります。映像も残ってます。毎回同じ女性。五十代くらい。身なりがいい。コートがいい」
「身なりがよくて万引きをする」
「そうなんです。お金に困ってるようには見えない。声をかけようと思うんですが、なんだか、かけにくくて」
かけにくい。この店長の正直な感覚だろう。身なりのいい女性が化粧品を鞄に入れるのを見て、見て見ぬふりをしてしまう。それが何度も続く。
映像を確認した。確かに同じ女性。紺色のカシミヤコート。髪はきれいに整えられている。手袋をしている、革の手袋。冬でもないのに。
化粧品の棚の前で立ち止まり、商品を手に取り、ゆっくりと鞄に入れる。急いでいない。隠す素振りもない。まるで、見てほしいかのように。
「この女性の来店パターンは」
「火曜と金曜。午後二時前後。ほぼ決まってます」
今日は金曜日。午後一時半。
「少し待たせてもらう」
鶫はドラッグストアの奥の休憩室で待った。店内カメラのモニターが小さな画面に映っている。
午後二時三分。女性が入ってきた。映像の通り。紺色のコート。革の手袋。
化粧品の棚に行った。口紅を手に取った。色を確認している。鞄を開けた。
鶫は休憩室を出て、売り場に向かった。
「すみません」
女性が振り返った。手に口紅を持ったまま。鞄は開いたまま。
「何でしょう」
「私は神崎と言います。この店の依頼で調査をしています」
女性の顔が、固まらなかった。驚いた顔をしなかった。固まるでもなく、逃げるでもなく。ただ、少し、肩の力が抜けた。
「……ああ」
それだけ言った。
「外で話しませんか」
商店街のベンチ。女性の名前は篠宮道子。五十六歳。夫は商社勤務。子供は二人、どちらも独立。駅前のマンションに住んでいる。
「お金には困っていませんね」
「困っていません。化粧品は、買えます。買えるものを、盗っていました」
「なぜ」
篠宮は商店街を見ていた。シャッターの降りた店。開いている店。人はまばら。
「この街に越してきて五年になります。夫の転勤で。静かでいい街だと思いました。最初は」
「最初は」
「静かすぎるんです。誰も、私を見ないの」
鶫は黙って聞いた。
「マンションの隣の部屋の人とは挨拶だけ。スーパーのレジの人は目を合わせない。町内会はないし、回覧板もない。みんな静かに暮らしてる。静かに暮らすことが、ここのルールみたい」
「それで万引きを」
「最初は違う理由だった。本当に忘れたんです、レジを通すのを。でも、誰も何も言わなかった。カメラに映ってるはずなのに。店員も、他のお客さんも。見ていたはずなのに」
「見ていたのに、言わなかった」
「言わないんです。この街の人は。だから私は、もう一度やった。今度はわざと。誰かが止めてくれるかと思って。止めてくれたら、」
「気づいてもらえる」
篠宮が頷いた。
「馬鹿なことをしてると分かってます。犯罪だと分かってます。でも、五年間、誰にも気づいてもらえないのは」
声が震えた。
「寂しいんです」
鶫は手帳にメモを取った。事実だけを。動機。背景。頻度。被害額。
被害額は合計で八千円程度だった。化粧品の口紅三本とファンデーション二つ。
店長に報告した。犯人の名前と動機。
「被害弁済は本人が行う意思があります。今後は繰り返さないと思います」
「……そうですか。なんか、怒れないな」
「怒っていい案件です。万引きは犯罪です」
「それはそうなんですが。あの人、寂しかったんですね」
店長もまた、見ていたはずだ。映像を見て、毎回同じ女性だと知っていて、それでも声をかけなかった。見ないことを選んでいた。この街では誰もがそうする。
事務所に戻った。コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。
律に電話した。
「万引き事件、解決した。裕福な主婦。動機は孤独」
「記事にしていいですか」
「匿名でなら。律。一つ気になることがある」
「何ですか」
「あの主婦が言った。『この街の人は見ない』と。見ているのに、見ない。カメラに映っているのに、止めない。隣人がいるのに、話さない」
「この街の流儀ですよ。じいちゃんも言ってた。『見たくないものを見ない力が、この街を静かにしている』って」
「見たくないものを見ない」
「異常が起きても、足が止まっても、犬が吠えなくても、見ない。見ないから静かでいられる。それがこの街の、構造です」
構造。
鶫はコーヒーを飲んだ。苦い。
万引きの動機は孤独だった。説明がつく。因果関係は明確。事件は解決した。
だが、「見ない街」という言葉が残った。
見ない。見ないことで、静かが保たれている。
この街の静かさは、住民が選んだものなのか。それとも、選ばされているのか。
手帳に一行書いた。「見ないことは、この街の防衛か。あるいは、症状か」
コーヒーが冷めた。