小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第12話「見えない万引き」

2,015文字 約5分

依頼はドラッグストアの店長からだった。

「万引きが止まらないんです。同じ人物。週に二回。化粧品を」

 商店街の中ほど。パステルカラーの看板のドラッグストア。店長は三十代の男性。声がおとなしい。この街の人間は声がおとなしい。

「防犯カメラは」

「あります。映像も残ってます。毎回同じ女性。五十代くらい。身なりがいい。コートがいい」

「身なりがよくて万引きをする」

「そうなんです。お金に困ってるようには見えない。声をかけようと思うんですが、なんだか、かけにくくて」

 かけにくい。この店長の正直な感覚だろう。身なりのいい女性が化粧品を鞄に入れるのを見て、見て見ぬふりをしてしまう。それが何度も続く。

 映像を確認した。確かに同じ女性。紺色のカシミヤコート。髪はきれいに整えられている。手袋をしている、革の手袋。冬でもないのに。

 化粧品の棚の前で立ち止まり、商品を手に取り、ゆっくりと鞄に入れる。急いでいない。隠す素振りもない。まるで、見てほしいかのように。

「この女性の来店パターンは」

「火曜と金曜。午後二時前後。ほぼ決まってます」

 今日は金曜日。午後一時半。

「少し待たせてもらう」

 鶫はドラッグストアの奥の休憩室で待った。店内カメラのモニターが小さな画面に映っている。

 午後二時三分。女性が入ってきた。映像の通り。紺色のコート。革の手袋。

 化粧品の棚に行った。口紅を手に取った。色を確認している。鞄を開けた。

 鶫は休憩室を出て、売り場に向かった。

「すみません」

 女性が振り返った。手に口紅を持ったまま。鞄は開いたまま。

「何でしょう」

「私は神崎と言います。この店の依頼で調査をしています」

 女性の顔が、固まらなかった。驚いた顔をしなかった。固まるでもなく、逃げるでもなく。ただ、少し、肩の力が抜けた。

「……ああ」

 それだけ言った。

「外で話しませんか」

 商店街のベンチ。女性の名前は篠宮道子。五十六歳。夫は商社勤務。子供は二人、どちらも独立。駅前のマンションに住んでいる。

「お金には困っていませんね」

「困っていません。化粧品は、買えます。買えるものを、盗っていました」

「なぜ」

 篠宮は商店街を見ていた。シャッターの降りた店。開いている店。人はまばら。

「この街に越してきて五年になります。夫の転勤で。静かでいい街だと思いました。最初は」

「最初は」

「静かすぎるんです。誰も、私を見ないの」

 鶫は黙って聞いた。

「マンションの隣の部屋の人とは挨拶だけ。スーパーのレジの人は目を合わせない。町内会はないし、回覧板もない。みんな静かに暮らしてる。静かに暮らすことが、ここのルールみたい」

「それで万引きを」

「最初は違う理由だった。本当に忘れたんです、レジを通すのを。でも、誰も何も言わなかった。カメラに映ってるはずなのに。店員も、他のお客さんも。見ていたはずなのに」

「見ていたのに、言わなかった」

「言わないんです。この街の人は。だから私は、もう一度やった。今度はわざと。誰かが止めてくれるかと思って。止めてくれたら、」

「気づいてもらえる」

 篠宮が頷いた。

「馬鹿なことをしてると分かってます。犯罪だと分かってます。でも、五年間、誰にも気づいてもらえないのは」

 声が震えた。

「寂しいんです」

 鶫は手帳にメモを取った。事実だけを。動機。背景。頻度。被害額。

 被害額は合計で八千円程度だった。化粧品の口紅三本とファンデーション二つ。

 店長に報告した。犯人の名前と動機。

「被害弁済は本人が行う意思があります。今後は繰り返さないと思います」

「……そうですか。なんか、怒れないな」

「怒っていい案件です。万引きは犯罪です」

「それはそうなんですが。あの人、寂しかったんですね」

 店長もまた、見ていたはずだ。映像を見て、毎回同じ女性だと知っていて、それでも声をかけなかった。見ないことを選んでいた。この街では誰もがそうする。

 事務所に戻った。コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。

 律に電話した。

「万引き事件、解決した。裕福な主婦。動機は孤独」

「記事にしていいですか」

「匿名でなら。律。一つ気になることがある」

「何ですか」

「あの主婦が言った。『この街の人は見ない』と。見ているのに、見ない。カメラに映っているのに、止めない。隣人がいるのに、話さない」

「この街の流儀ですよ。じいちゃんも言ってた。『見たくないものを見ない力が、この街を静かにしている』って」

「見たくないものを見ない」

「異常が起きても、足が止まっても、犬が吠えなくても、見ない。見ないから静かでいられる。それがこの街の、構造です」

 構造。

 鶫はコーヒーを飲んだ。苦い。

 万引きの動機は孤独だった。説明がつく。因果関係は明確。事件は解決した。

 だが、「見ない街」という言葉が残った。

 見ない。見ないことで、静かが保たれている。

 この街の静かさは、住民が選んだものなのか。それとも、選ばされているのか。

 手帳に一行書いた。「見ないことは、この街の防衛か。あるいは、症状か」

 コーヒーが冷めた。