依頼人は七十代の女性だった。名前は沼田文子。夫と二人暮らし。
「息子がね、心配してるんです。私に脅迫状が届いてるって」
鶫はメモを取った。
「脅迫状の中身は」
「見せてもらってないんです。息子が『お母さんに見せたくない』って。でも、怖いことが書いてあるって。お金を要求されてるって」
「息子さんが先に見つけた?」
「ええ。ポストに入っていたのを、息子が取ったんです。三通。全部息子が持ってます」
鶫は息子に会った。沼田健一。四十五歳。東京で不動産関係の仕事をしているが、月に一度帰省する。体格がいい。声が大きい。
「母が心配で。警察にも相談したんですが、手紙だけでは動けないって」
脅迫状のコピーを見せてもらった。手書き。丁寧な字。内容は「五百万円を指定口座に振り込まなければ、家族に危害を加える」。
鶫は脅迫状を三十秒見つめた。
違和感が三つ。
一つ。手紙の紙質がいい。コピー用紙ではなく、便箋。ブランドは、LIFE社のノーブルノート。文房具に詳しい人間でなければ使わない。脅迫犯が高級便箋を使うか?
二つ。切手。八十四円の普通切手。購入場所を消印から辿れるが、消印が薄い。これは郵便局の窓口で出したのではなく、ポスト投函。地元のポスト。
三つ。字が丁寧すぎる。脅迫文を書く人間は、筆跡を隠そうとする。利き手と逆の手で書くか、印刷する。この字は、堂々としている。隠す意思がない。
「息子さん。筆跡鑑定に出す許可をいただけますか」
「もちろん。犯人を特定したいです」
鶫は脅迫状のコピーと、息子が署名した委任状を持ち帰った。
筆跡鑑定は専門家に依頼する予算がない。だが、鶫には捜査一課時代に身につけた目がある。
沼田家を再訪し、文子の許可を得て、家の中にある手書きの書類を数点確認させてもらった。年賀状。町内会の回覧板の署名欄。電話帳の余白のメモ。
息子の字は、脅迫状の字と、一致していた。
特徴的な「は」の右払いの角度。「五」の書き出しの位置。「万」の最終画の止め方。
自作自演だ。
息子は母親に脅迫状が届いていると偽り、「お金を用意しなければ危険だ」と母親に思い込ませようとしている。目的は、遺産の前倒し引き出し。
鶫は文子に報告した。息子の前で。
「脅迫状は、息子さんの自筆です」
部屋が静まった。
文子は、驚かなかった。
少なくとも、鶫が予想したほどには驚かなかった。
「……そうですか」
「お気づきでしたか」
「気づいてたわけじゃないけど。でも、健一が手紙を見せてくれないのが、変だとは思ってました」
息子の顔が歪んだ。
「お母さん、」
「いいの。いいのよ。お金が必要なら言ってくれればよかったのに。こんなことしなくても」
文子は悲しそうだったが、怒ってはいなかった。息子への失望よりも、息子が追い詰められていたことへの心配が先に来ている。
息子は泣いた。借金があった。不動産の投資で失敗した。五百万を工面できなければ、。
鶫は解決報告書を書いた。脅迫状の筆跡鑑定結果。息子の自白。家族間の問題として処理。
報酬を受け取った。
沼田家を出た。外は曇り空。風がない。静かだ。
門のところで、文子が追いかけてきた。
「探偵さん」
「はい」
「この街で、静かに暮らしたかっただけなんです。主人と二人で。大きなことは望んでいない。ただ静かに」
鶫は頷いた。
「息子のことは、家族で話し合います。でも、ここには残ります。この街が好きだから」
文子は頭を下げて、家に戻っていった。
鶫は商店街を歩いた。
「静かに暮らしたかった」。
この街の住民が繰り返す言葉だ。篠原も「おとなしくて助かってる」と言った。宇津木署長も「ここの事件は都内と違う」と言った。
静かに暮らしたい。静かであることが善い。騒がないことが正しい。
この街は、「静か」を望む人間が集まる場所なのか。それとも、「静か」にされる場所なのか。
律に電話した。
「嘘の手紙事件、解決した。息子の自作自演」
「記事にしていいですか。匿名で」
「好きにしろ。律、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「この街に来る人間は、なぜ『静かに暮らしたい』と言うんだ」
律は三秒黙った。
「じいちゃんが言ってたことを思い出した。『この街には声が届かない場所がある。だから声を出さない人間が集まる』」
「声を出さない人間が集まる」
「望んで静かにしてるのか、静かでいるしかないのか。それは、俺にも分からない」
鶫は電話を切った。
事務所に戻った。コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。
事件は解決した。嘘の脅迫状。息子の借金。家族の問題。因果関係は明確。説明がつく。
でも、「静かに暮らしたかった」という言葉が、因果の外に残った。
いつもの余白だ。
コーヒーを飲んだ。苦い。