小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第10話「消えたジョガー」

1,968文字 約4分

依頼ではなかった。

 律が持ってきた情報だった。事務所に来るなり、「面白い話がある」と言った。律にとっての「面白い」は、たいてい鶫にとっての「不穏」と同義だ。

「北槻ノ森の雑木林の近くで、ジョギング中の男が消えたって通報があったんですよ。昨日の夕方」

「消えた」

「見つかりました。今朝、普通に帰宅した。警察にも連絡があって、捜索は打ち切り。でも、話が変なんです」

 鶫はコーヒーを淹れながら聞いた。

 消えた男は三十代の会社員。毎日夕方に雑木林の周辺をジョギングしている。昨日の午後五時頃、妻が「帰りが遅い」と心配して通報。携帯電話は繋がらない。ジョギング仲間にも連絡が取れない。

 翌朝、男は自宅に帰ってきた。「道を間違えて遠回りした。携帯の電池が切れて連絡できなかった」と説明した。妻は安堵した。警察は受理した。終わり。

「で、何が変なんだ」

「目撃証言がバラバラなんです」

 律がスマートフォンを出した。タイムスの取材メモだ。

「昨日の夕方五時前後、雑木林の遊歩道で男を見たという証言が三件。一人目は『林の方に走っていった』。二人目は『林の入口で立ち止まっていた』。三人目は『遊歩道を普通に走り去った』」

「三件とも同じ人物か」

「服装の描写は一致してます。青いウインドブレーカーに黒のランニングパンツ。同じ人物でしょう」

「走っていった、立ち止まっていた、走り去った。行動が全部違う」

「そうなんです。で、本人に聞くと、」

「何と言った」

「『よく覚えていない』」

 鶫の手が止まった。コーヒーカップを持ったまま。

「覚えていない」

「道を間違えたと言ってるのに、どこで間違えたかは覚えていない。遠回りしたと言ってるのに、どのルートを通ったかは覚えていない。帰宅時刻は今朝の六時だけど、夕方五時から翌朝六時までの十三時間をどこで過ごしたかは、」

「覚えていない」

「本人は『眠ってしまったのかもしれない』と言ってます。林の近くのベンチで寝てしまって、朝になって目が覚めて帰った、と」

 十月の夜。気温は十度を下回る。ベンチで十三時間眠って、風邪一つ引かずに帰宅する。

「体調は」

「異常なし。病院には行っていません。妻は『元気そうだった』と」

 鶫は事務所を出た。

 雑木林の遊歩道に行った。目撃証言が得られた場所を歩いた。

 三件の目撃場所は、いずれも遊歩道の分岐点、あの「関係者以外立入禁止」の看板がある場所、から百メートル以内だった。

 分岐点に立った。

 右は遊歩道の続き。左は「関係者以外立入禁止」の細い道。前回と同じだ。下草が茂っている。人が歩いた形跡はない。

 足が、止まらなかった。

 今日は止まらない。前回は止まったのに。

 一歩。左の道に踏み込んだ。下草を踏む感触。湿った土。

 三歩。五歩。十歩。

 止まらない。進める。

 二十歩。道が暗くなった。木の枝が頭上を覆っている。木漏れ日が少ない。空気が変わった。冷たい。湿っている。

 三十歩。

 足が止まった。

 今度は、前回とは違う止まり方だった。前回は「入るべきではない」という心理的な制止。今回は、

 音が消えた。

 鳥の声が聞こえない。風の音が聞こえない。遊歩道の方向から聞こえていたはずの、ジョギングしている人の足音が、聞こえない。

 無音。

 完全な無音。

 鶫は自分の呼吸を聞いた。心臓の音を聞いた。体の中の音だけが聞こえる。外の音が全て消えている。

 三秒。五秒。十秒。

 振り返った。来た道が見える。下草。木立。遊歩道の方角。

 足を動かした。後ろに。来た道を戻る。一歩、二歩、三歩。

 音が戻ってきた。鳥の声。風。遠くの車の音。

 二十歩戻ったところで、世界が元に戻った。

 鶫は遊歩道のベンチに座った。膝に手を置いた。手が冷たかった。十月の風ではなく、あの無音の冷たさが残っている。

 ジョガーの男は、あそこに入ったのか。

 入って、十三時間。記憶がない。目撃証言がバラバラなのは、男の行動が一貫していなかったからだ。走っていた。止まった。また走った。入ろうとして、引き返して、また入ろうとした。

 最終的に、入った。

 そして出てきた。記憶がないまま。

 鶫は手帳を開いた。

 「三十歩で無音」と書いた。

 事務所に戻った。律に電話した。

「雑木林の細い道に入った。三十歩で外の音が全部消えた。無音だ。完全な無音」

 律が三秒黙った。

「……入ったんですか。入れたんですか」

「今日は入れた。前回は止まったのに」

「日によって変わるのか。……じいちゃんのメモにはそんなこと書いてなかった」

「書いていないことの方が多い。お前の祖父も全てを知っていたわけではない」

「神崎さん。無理しないでください」

「無理はしていない。三十歩で引き返した。それ以上は、進めなかった」

 進めなかったのか、進まなかったのか。自分でも分からなかった。

 コーヒーを淹れた。八十五度。三分半。

 飲んだ。苦い。

 手帳を見返した。「三十歩で無音」。

 説明がつかない。

 だが、記録した。