小説置き場
槻ノ森、犬も吠えず 戸守 礼司

第1話「来ない依頼人」

4,047文字 約9分

看板は小さい。駅から徒歩七分。商店街を抜けた先の雑居ビルの二階。階段を上がって右手のドア。磨りガラスに「神崎探偵事務所」とだけ書かれたカッティングシートが貼ってある。文字の大きさは三センチ。通りからは見えない。

 神崎鶫はシートの位置を三ミリ左に修正し、指で気泡を押し出してから、事務所の中に戻った。

 机が一つ。パイプ椅子が二つ、依頼人用と自分用。中古のノートパソコンが一台。スチール棚に文房具とコピー用紙。窓は東向きで、午前中だけ日が入る。壁にはカレンダーが一枚。十月の暦。予定の書き込みはない。

 以上が神崎探偵事務所の全備品だった。開業届は先週出した。名刺は百枚刷った。まだ九十九枚ある。一枚は不動産屋の担当者に渡した。

 十月一日。午前九時。開業初日。

 依頼人は来ない。

 コーヒーを淹れた。ドリップ式。豆はスーパーの特売品だが、湯の温度と抽出時間は正確に測る。八十五度。三分半。鶫のコーヒーの淹れ方には、元同僚が「証拠品の扱いみたいだ」と言ったことがある。褒め言葉ではなかった。

 午前十時。来ない。窓の外で鳩が鳴いている。

 午前十一時。パソコンで開業に伴う経理処理を進めた。事務所の家賃は月四万五千円。光熱費込み。蓄えは八ヶ月分ある。八ヶ月以内に黒字にならなければ、別の道を考える必要がある。

 午前十一時四十分。階段を上がってくる足音が聞こえた。一人。やや重い歩幅。左足をかばう傾向がある。

 ドアが開いた。

 女性。六十代後半。身長百五十五センチ前後。グレーのコートに紺のスカーフ。杖はないが左膝をかばう歩き方——変形性膝関節症の初期と推定。コートの右肘に白と茶と黒の短い毛が付着している。三色。三毛猫。

「あの、探偵さん?」

「はい。どうぞ、お座りください」

 依頼人を椅子に座らせ、コーヒーを出し、話を聞いた。

 三毛猫。名前はトラ。メス。推定八歳。避妊手術済み。完全室内飼い。三日前の夕方、宅配便の受け取り時にドアの隙間から脱走。以降、自宅に戻っていない。

「うちの子、外を知らないんです。生まれてからずっと室内で……怖い思いをしているんじゃないかと思うと」

 声が震えた。鶫はメモを取りながら、依頼人の言葉を遮らなかった。猫の写真をスマートフォンで受け取る。やや太め。右耳に小さな切れ込み。首輪なし。体重四・二キロ。

「報酬は成功報酬制です。猫が見つからなかった場合、お支払いは不要です」

「まあ、そんな。申し訳ないわ」

 依頼人の肩がわずかに下がった。安堵。金額の心配をしていた。年金暮らしだろうか。鶫はそれを尋ねなかった。

 依頼人が帰ったあと、鶫はコーヒーカップを二つ洗い、コートを羽織って外に出た。

 槻ノ森市。東京都多摩地域の西側。人口十四万三千人。主要産業なし。JRと私鉄の乗り入れ駅が一つ。都心への通勤は片道七十分。商店街は半分シャッターが降りていて、駅前のチェーン店だけがやけに新しい。

 静かな街だ。

 二年前にここに来たのは、静かな場所が必要だったからだ。警視庁捜査一課を辞めた理由を、鶫は誰にも説明していない。理由はある。説明はしない。

 飼い猫の行動半径は、脱走地点から半径二百メートル以内に収まることが多い。完全室内飼いの場合、外界への恐怖から移動距離はさらに短くなる。怯えて近場の暗がりに隠れ、動けなくなっている可能性が高い。

 依頼人の自宅周辺を歩く。住宅街。築三十年前後の一戸建てとアパートが混在している。ブロック塀。植え込み。駐車場。猫が隠れそうな場所を一つずつ確認する。塀と壁の隙間。車の下。室外機の裏。エアコンの配管に沿った細い通路。

 三十分後。行き止まりの路地の奥で、ダンボール箱の脇にしゃがんでいる男がいた。

 二十代後半。パーカーにジーンズ。肩にかけたショルダーバッグから小型のミラーレスカメラが覗いている。片手にちゅーるの袋を持ち、ダンボール箱の中を覗き込んでいた。

「何をしている」

 男が振り向いた。警戒する様子はない。人懐っこい笑顔。歯並びがいい。

「あ、どうも。猫、探してます?」

「依頼で」

「俺もです。まあ、俺は依頼っていうか取材なんですけど」

 鶫は一秒だけ間を置いた。

「あなたも探偵?」

「いやいや」男は立ち上がった。鶫より頭半分高い。「ツキノ森タイムスっていう地域情報誌の者です。綿貫律。おばあちゃんから、さっきの依頼人さんだと思うんですけど、猫の取材をさせてもらう約束をしてたんですよ。『うちの看板猫・看板ペット特集』。月末号の企画で。そしたら猫が逃げちゃって。取材できないから、先に見つけようかなと」

 喋りが速い。情報量が多い。だが嘘の気配はない。声のトーンが均一で、視線が安定している。

「トラちゃん、近所で有名なんですよ。通りかかると窓際に座ってて、よく手を振ってくれるって」

 ダンボール箱の中に猫はいなかった。律はちゅーるを仕舞い、ズボンの膝についた砂を払った。

「で、あなたは?」

「神崎。探偵です」

「探偵!」律の目が丸くなった。「この街に探偵事務所なんてありましたっけ。聞いたことないな」

「今日からある」

 律は一瞬きょとんとして、それから声を上げて笑った。路地に笑い声が響く。近所迷惑だ。

「開業初日の最初の仕事が猫探し! いいですね。平和で。この街に合ってる」

 鶫は笑わなかった。

「猫の居場所に心当たりは」

「ああ、たぶん駅裏の空き地。あそこ、野良猫のコロニーがあるんですよ。塀の向こうに空き家があって、その庭が猫の溜まり場になってる。室内飼いの子が脱走すると、匂いに引かれてそっちに行くことが多い」

「根拠は」

「経験。この街で猫の記事を三年書いてるんで。脱走猫の捕獲を手伝ったことも五回くらいある」

 鶫は律の情報を採用するかどうかを二秒で判断した。採用する。ただし現地で検証する。

 二人は駅裏の空き地に向かった。並んで歩く形になった。律が話し、鶫が聞いた。律はこの街の出身で、大学を出てからずっとここにいること。タイムスは月刊で発行部数二千部。取材先は商店街から町内会まで。情報の幅は広いが深さは浅い、と本人は言ったが、鶫は別の印象を持った。深い情報を浅く見せる話し方をする人間がいる。

 空き地のフェンスに着いた。高さ一・五メートル。有刺鉄線なし。フェンスの下部に猫が通れる隙間がある。草むらの奥に、空き家の庭の一部が見えた。

 野良猫が三匹、日向で丸くなっていた。灰色のキジトラ、白黒のハチワレ、茶トラ。その三匹から少し離れた場所——空き家の壁と室外機の間——に、体を小さく丸めた三毛猫が座っていた。

「いた」

「いましたね」

 鶫は写真と照合した。体格、毛色の分布、右耳の切れ込み。一致。

 問題は捕獲だった。近づけば猫は逃げる。完全室内飼いの猫は外の環境に怯えて警戒心が極端に高くなっており、人間の接近をさらに強く拒む。

「ちゅーる使います?」律がポケットから新しいちゅーるを出した。

「いい。匂いで引き寄せると他の野良も反応する。混乱する」

「じゃあどうします?」

「この空き地のフェンスは三方向が塞がっている。残りの一方向、ここを塞げば、猫の退路がなくなる」

 鶫は近くの路地からダンボールの廃材を拾ってきて、フェンスの開口部に立てかけた。完全に塞がなくていい。猫の視界から「逃げ道がない」と認識させれば十分だ。

「それで?」

「待つ」

「待つ」

「退路がない状態で、こちらが脅威でないと示し続ければ、猫は自分から近づいてくる。逃げ場がないなら、一番害のなさそうなものに寄るしかない」

 律は不服そうだったが、鶫は三メートル離れた場所にしゃがみ、動かなくなった。

 風が吹いた。金木犀の匂いがかすかにする。空き地の草が揺れる。野良猫たちは気にせず眠っている。三毛猫だけが、壁の影から鶫を見ていた。丸い目。瞳孔が細い。緊張している。

 十分。二十分。三十分。

 律が何度か口を開きかけ、そのたびに鶫の表情を見て閉じた。

 四十分後。三毛猫が壁の影から一歩出た。二歩。三歩。鶫の靴の先まで来て、匂いを嗅いだ。ひげが靴紐に触れる。

 鶫は動かなかった。呼吸を浅くして、視線を猫から外した。

 猫が靴の甲に頬をこすりつけた瞬間、右手が伸びた。首の後ろの皮を掴む。猫が短く鳴いた。暴れない。掴まれたことで逆に安心したように、四肢の力が抜けた。

 捕獲完了。

「……すごいですね」律が立ち上がった。膝の砂を払い、感心したような、呆れたような顔をしている。「四十分、微動だにしなかったですね」

「猫は安全を確認してから動く。退路を塞いで、こちらが脅威でないと証明すれば近づいてくる」

 鶫はトラを胸に抱いた。猫の体温が腕に伝わる。心拍が速い。怖かっただろう。三日間。

「人間と同じだ」

「人間と同じ、ね」律は妙な顔をした。「神崎さん、前は何やってたんですか? その観察力、ただの転職組じゃないでしょう」

「会社員」

 嘘ではない。公務員も広義の会社員だ。

 依頼人にトラを返した。依頼人は猫を抱きしめて泣いた。猫は迷惑そうに耳を伏せたが、逃げなかった。報酬を受け取った。金額は口にしない程度に安い。

 事務所に戻ると、律がまだついてきていた。階段の下で立ち止まっている。

「なんですか」

「いや、ちょっと気になって。この街に探偵って、需要あると思います? 犯罪率も低いし、大きな事件もないし」

「あるかどうかは、やってみなければ分からない」

「そりゃそうだ」律はポケットから名刺を出した。「何かあったら連絡ください。街のことなら大体分かるんで。じゃ、また」

 名刺。「ツキノ森タイムス 編集・ライター 綿貫律」。裏面にSNSのアカウントと携帯番号が手書きで書いてある。印刷しろよ、と思った。

 鶫はその名刺をスチール棚の引き出しにしまった。

 椅子に座り、窓の外を見た。槻ノ森の街並みが夕日に染まっている。低い建物が続く住宅街の向こうに、雑木林の稜線が見えた。鳥が二羽、その上を横切っていった。

 静かだ。

 警視庁時代、鶫は騒がしい場所にいた。怒号と電話と、事件の残り香。ここにはそのどれもない。

 この街は——静かすぎる。

 開業初日の感想としては、それだけだった。