文化祭の朝は、校門の外から始まっていた。
のぼりが立っている。「星原祭」。手書きの文字。美術部が描いたらしい。澪の筆遣いではなかった。一年生だろうか。
校庭にはテントが並んでいる。焼きそば、たこ焼き、チュロス。煙が上がっている。油の匂い。ソースの匂い。十月の風が匂いを校舎の方に運んでいる。
校舎の中はもっと騒がしかった。
二年三組のお化け屋敷は列ができている。窓から悲鳴が聞こえる。今度は本気の悲鳴だ。一年二組の縁日コーナーでは射的の音がしている。吹奏楽部のリハーサル音が体育館から漏れている。
湊は新聞部のブースにいた。廊下の突き当たり。壁に貼った模造紙と、刷り上がった文化祭特別号。来場者がちらほら立ち止まって読んでいる。一年生の二人が元気に声をかけている。
「星原新聞です! 統廃合特集号、読んでってください!」
湊はブースの端に座って、校舎の中を観察していた。
颯真を見つけた。二年一組の教室。クラスの出し物はカフェだ。颯真がエプロンをつけて客を席に案内している。笑顔。大きな声。サッカー部のユニフォームの上にエプロンを着ていて、似合っていない。でもそれが逆に人気になっている。女子が写真を撮っている。
颯真は、明るかった。明るすぎるくらい。教室の中心にいて、全員の視線を集めている。その明るさの裏に何があるか、湊にはまだ分からない。
千紘を見つけた。保健委員として来場者の誘導をしている。二階の廊下。「こちらが順路です」と丁寧に案内している。小学生の一団が来て、千紘が先頭を歩いた。小学生の一人が千紘の手を掴んだ。
千紘の顔が、変わった。一瞬。目が見開かれて、唇が震えた。すぐに元に戻った。笑顔を作り直して、小学生の手を握り返した。
湊はその一瞬を見逃さなかった。
触れた。手に触れた瞬間に、千紘は何かを感じた。設定資料にある「触れた相手の隠された痛みが流れ込む」という異変。小学生の手から何かが伝わったのか。
琴葉を見つけた。生徒会副会長として、体育館のステージ進行を仕切っている。マイクを持って、次の演目を紹介している。声が通る。堂々としている。
「次は吹奏楽部の演奏です。準備の間、少しお待ちください」
琴葉のマイクの使い方は、放送部員のそれに近かった。美空と同じ部活ではなかったが、友人として一緒にいた時間が長い。話し方が、少し、似ている。
ステージの袖で、奈央がPAのミキサーを操作していた。フェーダーを動かす手つきは正確で、プロフェッショナルだった。琴葉のマイクの音量を調整している。琴葉が話し、奈央が音を整える。二人は視線を交わさなかった。業務的な連携。だがかつては、三人だったはずだ。美空と、琴葉と、奈央。
美空がいない。
去年の文化祭では、美空が放送部としてPAを担当していた。美空の声が体育館のスピーカーから響いていた。今年は奈央がその場所にいて、美空の代わりに音を整えている。
誰もそのことに触れなかった。
「去年も放送部でPA担当してたのに」
来場者の中の、卒業生らしい女性が呟いた。連れの男性が「そうだったっけ」と返して、話はそれで終わった。
湊はブースに戻った。
文化祭は楽しかった。客観的に。模造紙の前で立ち止まる人。特別号を持って帰る人。一年生が嬉しそうに「読んでくれた人、今日で五十人超えました!」と報告してきた。
楽しいはずだった。
だが湊の頭の中には、千紘の一瞬の表情と、琴葉のマイクの持ち方と、奈央がミキサーに向けた目線が残っていた。
三人が、それぞれの場所で、それぞれの役割を果たしている。去年はいた人間がいない場所で。
午後三時。文化祭の最後のプログラム。体育館で全校合唱。
湊はステージの下の客席にいた。校歌が始まった。ピアノの伴奏。全校生徒が歌っている。声が体育館に響く。
スピーカーから、一瞬だけ、ノイズが混じった。
ザ、と。砂を踏むような音。あの日、廊下で聞いたのと同じ種類のノイズ。
湊だけが気づいた。他の生徒は歌い続けている。教師も。来場者も。
ノイズの隙間に、声は聞こえなかった。今回は。
でも、ノイズは鳴った。
美空が、まだここにいるのだと、思った。
思いたかっただけかもしれない。
文化祭が終わった。片づけ。テントを畳み、ゴミを分別し、模造紙を剥がす。日常が戻ってくる。祭りの後の、少しだけ寂しい空気。
帰り道。夕焼け。イヤホンはつけなかった。
明日から、本当の調査を始めよう。颯真に会いに行く。