文化祭まで三日。校舎は戦場だった。
廊下にベニヤ板が立てかけてある。階段の踊り場にペンキの缶。体育館から吹奏楽部のリハーサルが漏れている。二年三組のお化け屋敷は黒い布で窓を塞ぎ終えて、中から悲鳴の練習が聞こえる。悲鳴にしては楽しそうだ。
新聞部の展示ブースは廊下の突き当たり。壁に模造紙を貼って、過去の記事のハイライトを掲示する。一年生の二人が手際よく貼り付けている。任せて正解だった。
「先輩、このレイアウトでいいですか」
「いいよ。文字が小さいとこだけ、見出しを大きくして」
作業を見守りながら、湊は廊下の向こうに目を向けた。放送室の方角。
文化祭当日のPA、体育館のスピーカーとマイクのセッティング、は放送部の仕事だ。ケーブルの配線、ミキサーの調整、マイクテスト。放送部員は二年生が四人いるが、文化祭は普段の校内放送と比べて規模が大きい。
湊は一年生に声をかけた。
「僕、放送部のPA準備の手伝い行ってくる。何かあったらLINEして」
「はーい」
体育館に行った。
ステージの袖で、放送部員がケーブルの束と格闘していた。奈央がミキサーの前に座って、フェーダーを動かしている。
「倉橋さん、手伝えることある?」
奈央が顔を上げた。一瞬だけ、湊を見る目が警戒した。だがすぐに、業務の顔に切り替わった。
「ケーブル、巻けるでしょう? ステージ上のマイクから袖のミキサーまで、三本引いてほしい。八の字巻きで」
「やる」
ケーブルを引いた。以前見た、奈央のきれいな八の字巻き。あの手つきを思い出しながら、同じように巻く。下手くそだったが、三本目にはまともになった。
作業の合間に、放送室に機材を取りに戻った。奈央と二人。他の部員は体育館に残っている。
放送室の棚。ミキサー用の予備ケーブルを探しながら、湊の目が止まった。
棚の一番下の段。奥の方。埃をかぶった充電台が一つ。ICレコーダー用の充電クレードル。機種名のシールが貼ってある。
美空が使っていたICレコーダーの機種だ。声の地図の録音に使われたのは、MDとICレコーダーの両方。素材⑧のような古い録音はMD、新しい録音はICレコーダー。
充電台はある。本体がない。
「倉橋さん」
「何?」
「この充電台、美空さんのICレコーダーの?」
奈央の手が止まった。ケーブルを持ったまま。
「……そう」
「本体は」
「処分した。パソコンのデータと一緒に」
ICレコーダー本体を物理的に処分した。SDカードのバックアップも消去した。パソコンのファイルも削除した。三重に消した。
だが、MDは消し忘れた。そして充電台も残っている。
「充電台を残したのは」
「忘れてた。MDと同じ。……私、そういうところが抜けてる」
奈央の声は自嘲だった。完璧に消したつもりで、端から漏れている。人間のやることには穴がある。
「倉橋さん。ICレコーダーの中に何が入っていたか、覚えてる?」
「覚えてない。再生せずに消した」
「再生せずに?」
「聞いたら消せなくなると思ったから」
湊は言葉を探した。
奈央は中身を確認せずに消した。美空が何を録っていたのか、奈央自身も知らない。知らないまま、「残してはいけないものがある」と判断して消した。
根拠は、美空が「聞いてはいけないもの」を録っていたことを、別の形で知っていたからだ。録音以外の方法で。
つまり、美空は奈央に何かを話していた。録音の中身ではなく、録音の対象、誰の、何を録ったか、を。
「聞いてもいいか。美空さんは、何を録ったか、あなたに話してた?」
奈央がケーブルを棚に置いた。動作がゆっくりだった。
「全部じゃない。でも、あの夜の少し前に、美空が私に言ったの。『大事な声が録れた。でもこれは、本人の許可がないと使えない』って」
「本人の許可」
「声の地図は、インタビュー対象の同意を取ってから使うルールだった。美空はそれを守っていた。でも、一回だけ、同意なしで録ってしまった。それを、すごく気にしてた」
素材⑧の末尾。「ごめんなさい。勝手に聞いてしまって」。
同意なしの録音。美空はそのことを悔いていた。だが「残さなきゃいけない」とも思っていた。
「本人って、誰ですか」
奈央は首を振った。
「美空は名前を言わなかった。でも、学校の中の人だと思う。美空の声が、そういう距離感だったから」
学校の中の人。生徒か、教師か。
体育館から「奈央ー、ケーブルまだー?」と声がかかった。奈央は予備ケーブルを掴んで、放送室を出ようとした。
「柊くん」
「うん」
「私が消したのは、たぶん、間違ってた。美空が残したかったものを、私が勝手に消した。美空がいたら、怒ると思う」
奈央の目が赤くなっていた。泣いてはいない。
「でも、あの時の私には、あれが精一杯だった」
奈央は走って体育館に戻っていった。
湊は放送室に一人で残った。充電台を見つめた。空のクレードル。本体はない。
美空が同意なしで録った声。学校の中の人。
素材⑤の匿名の男子。「黙ることが同意になる」。あれも同意なしの録音だったのかもしれない。
文化祭の喧騒が、壁の向こうから聞こえている。誰かの笑い声。ハンマーの音。ガムテープを切る音。
三日後、この校舎はお祭りになる。
でも湊の頭の中には、美空が「大事な声が録れた」と言ったときの声が残っていた。聞いたことのない声だ。奈央を通じてしか知らない声。
録音はもう、どこにも残っていない。