小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第8話「祭りの前の静寂」

2,162文字 約5分

文化祭まで三日。校舎は戦場だった。

 廊下にベニヤ板が立てかけてある。階段の踊り場にペンキの缶。体育館から吹奏楽部のリハーサルが漏れている。二年三組のお化け屋敷は黒い布で窓を塞ぎ終えて、中から悲鳴の練習が聞こえる。悲鳴にしては楽しそうだ。

 新聞部の展示ブースは廊下の突き当たり。壁に模造紙を貼って、過去の記事のハイライトを掲示する。一年生の二人が手際よく貼り付けている。任せて正解だった。

「先輩、このレイアウトでいいですか」

「いいよ。文字が小さいとこだけ、見出しを大きくして」

 作業を見守りながら、湊は廊下の向こうに目を向けた。放送室の方角。

 文化祭当日のPA、体育館のスピーカーとマイクのセッティング、は放送部の仕事だ。ケーブルの配線、ミキサーの調整、マイクテスト。放送部員は二年生が四人いるが、文化祭は普段の校内放送と比べて規模が大きい。

 湊は一年生に声をかけた。

「僕、放送部のPA準備の手伝い行ってくる。何かあったらLINEして」

「はーい」

 体育館に行った。

 ステージの袖で、放送部員がケーブルの束と格闘していた。奈央がミキサーの前に座って、フェーダーを動かしている。

「倉橋さん、手伝えることある?」

 奈央が顔を上げた。一瞬だけ、湊を見る目が警戒した。だがすぐに、業務の顔に切り替わった。

「ケーブル、巻けるでしょう? ステージ上のマイクから袖のミキサーまで、三本引いてほしい。八の字巻きで」

「やる」

 ケーブルを引いた。以前見た、奈央のきれいな八の字巻き。あの手つきを思い出しながら、同じように巻く。下手くそだったが、三本目にはまともになった。

 作業の合間に、放送室に機材を取りに戻った。奈央と二人。他の部員は体育館に残っている。

 放送室の棚。ミキサー用の予備ケーブルを探しながら、湊の目が止まった。

 棚の一番下の段。奥の方。埃をかぶった充電台が一つ。ICレコーダー用の充電クレードル。機種名のシールが貼ってある。

 美空が使っていたICレコーダーの機種だ。声の地図の録音に使われたのは、MDとICレコーダーの両方。素材⑧のような古い録音はMD、新しい録音はICレコーダー。

 充電台はある。本体がない。

「倉橋さん」

「何?」

「この充電台、美空さんのICレコーダーの?」

 奈央の手が止まった。ケーブルを持ったまま。

「……そう」

「本体は」

「処分した。パソコンのデータと一緒に」

 ICレコーダー本体を物理的に処分した。SDカードのバックアップも消去した。パソコンのファイルも削除した。三重に消した。

 だが、MDは消し忘れた。そして充電台も残っている。

「充電台を残したのは」

「忘れてた。MDと同じ。……私、そういうところが抜けてる」

 奈央の声は自嘲だった。完璧に消したつもりで、端から漏れている。人間のやることには穴がある。

「倉橋さん。ICレコーダーの中に何が入っていたか、覚えてる?」

「覚えてない。再生せずに消した」

「再生せずに?」

「聞いたら消せなくなると思ったから」

 湊は言葉を探した。

 奈央は中身を確認せずに消した。美空が何を録っていたのか、奈央自身も知らない。知らないまま、「残してはいけないものがある」と判断して消した。

 根拠は、美空が「聞いてはいけないもの」を録っていたことを、別の形で知っていたからだ。録音以外の方法で。

 つまり、美空は奈央に何かを話していた。録音の中身ではなく、録音の対象、誰の、何を録ったか、を。

「聞いてもいいか。美空さんは、何を録ったか、あなたに話してた?」

 奈央がケーブルを棚に置いた。動作がゆっくりだった。

「全部じゃない。でも、あの夜の少し前に、美空が私に言ったの。『大事な声が録れた。でもこれは、本人の許可がないと使えない』って」

「本人の許可」

「声の地図は、インタビュー対象の同意を取ってから使うルールだった。美空はそれを守っていた。でも、一回だけ、同意なしで録ってしまった。それを、すごく気にしてた」

 素材⑧の末尾。「ごめんなさい。勝手に聞いてしまって」。

 同意なしの録音。美空はそのことを悔いていた。だが「残さなきゃいけない」とも思っていた。

「本人って、誰ですか」

 奈央は首を振った。

「美空は名前を言わなかった。でも、学校の中の人だと思う。美空の声が、そういう距離感だったから」

 学校の中の人。生徒か、教師か。

 体育館から「奈央ー、ケーブルまだー?」と声がかかった。奈央は予備ケーブルを掴んで、放送室を出ようとした。

「柊くん」

「うん」

「私が消したのは、たぶん、間違ってた。美空が残したかったものを、私が勝手に消した。美空がいたら、怒ると思う」

 奈央の目が赤くなっていた。泣いてはいない。

「でも、あの時の私には、あれが精一杯だった」

 奈央は走って体育館に戻っていった。

 湊は放送室に一人で残った。充電台を見つめた。空のクレードル。本体はない。

 美空が同意なしで録った声。学校の中の人。

 素材⑤の匿名の男子。「黙ることが同意になる」。あれも同意なしの録音だったのかもしれない。

 文化祭の喧騒が、壁の向こうから聞こえている。誰かの笑い声。ハンマーの音。ガムテープを切る音。

 三日後、この校舎はお祭りになる。

 でも湊の頭の中には、美空が「大事な声が録れた」と言ったときの声が残っていた。聞いたことのない声だ。奈央を通じてしか知らない声。

 録音はもう、どこにも残っていない。