小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第7話「傍観者の記録」

1,829文字 約4分

土曜日の午前、旧特別棟。三度目の訪問で、湊の足はもう迷わなかった。立入禁止のテープをくぐり、玄関を開け、機材室に入る。電源コードを繋ぐ。MDプレーヤーの赤いランプ。

 素材⑥を入れた。

 録音日は十月五日。場所は駅前のロータリー。インタビュー対象は、バス待ちの主婦。五十代くらいの声。

 「この街で好きな音? そうねえ……夕方の防災無線かしら。五時になると流れるでしょ、あの音楽。子どもが帰ってくる合図なのよ。あの音が聞こえると、ああ今日も無事だったって思うの」

 美空が「無事だったって、毎日思うんですか」と聞いた。

 「毎日よ。子どもが小さい頃は特にね。大きくなっても、あの音を聞くと条件反射みたいに安心するの。変かしら」

 「変じゃないです。すごく、いいと思います」

 美空の声が柔らかかった。相手の言葉をそのまま受け止める声。批評しない。評価しない。ただ聞いて、「いいと思います」と返す。

 素材⑥はそれで終わった。五分弱。静かな録音。

 素材⑦を入れた。

 録音日は十月十四日。場所は、学校の中庭。昼休みの雑踏が背景に聞こえる。インタビュー対象は中学生。男子。声が少し高い。

 「好きな音? ゲームのBGM? いや、違うな。えっと、自転車のチェーンの音。坂を下るとき、ペダル止めてもチェーンがカラカラ鳴るやつ。あれ好き」

 「どうして好きなの?」

 「なんか、自由な感じがするから。漕がなくても進んでるっていうか」

 美空が笑った。「いい表現だね」。

 録音が続いた。中学生が帰った後。美空の独り言が入っていた。

 テスト録音の消し忘れではない。意図的に録音を続けている。美空はマイクに向かって、小さな声で呟いた。

 「もう少し踏み込んでいいのかな。聞きたいことがある。でも、聞いたら変わっちゃう。聞かなければ、今のまま続く。どっちがいいんだろう」

 録音が止まった。

 湊はMDプレーヤーの前に座ったまま、美空の言葉を反芻した。

 「もう少し踏み込んでいいのかな」。

 奈央が言った。「いい人は、ときどき怖い。善意で人の境界線を越える」。

 美空自身も、その境界線に気づいていた。踏み込むべきか、踏み込まないべきか。聞くべきか、聞かないべきか。

 そして、踏み込んだ。素材⑧の末尾の録音がそれを証明している。「ごめんなさい。勝手に聞いてしまって」。

 湊は自分の手を見た。取材ノートを持つ手。ペンを握る手。

 自分も同じことをしている。

 奈央に聞いた。「なぜ消したの」。澪に聞いた。「美空さんのこと?」。答えたくない人に、聞きたいことを聞いている。新聞部の取材だと言えば正当化できる。真実を追い求めていると言えば正しく聞こえる。

 でも美空もそうだった。声の地図という企画があれば、聞くことが正当化できた。誰かの声を録ることは善いことだと思えた。

 境界線を越えていたのは、美空だけじゃない。

 湊はMDを取り出して、機材室を出た。

 一階の廊下を歩きながら、窓の外を見た。グラウンド。空。十月の雲。

 部室に戻った。鞄から取材ノートを出した。去年の十月のページ。美空の音声作品を文字起こしした記録。

 その数ページ後に、統廃合に関する取材メモがある。回答率三十二パーセントの生徒アンケート。来月号の記事の素材。

 湊は一年生の二人のことを考えた。文化祭特別号の印刷を一緒にやった。紙詰まりを直した。彼女たちにとって、新聞部は部活であり日常だ。統廃合の記事は、彼女たちが書けばいい。むしろ、在校生の目線で書く方が適切だ。

 月曜日の放課後、一年生に伝えた。

「来月号の統廃合記事、二人に任せたい。取材先のリストとアンケート結果のデータは引き継ぐから」

「え、先輩がやらなくていいんですか?」

「僕は別の調べものに時間を使いたくて。新聞部の仕事は大事だけど、今は、個人的に追いかけたいことがある」

 一年生は顔を見合わせて、それから頷いた。「分かりました」。頼もしい。

 部室を出て、廊下を歩いた。放課後の校舎。吹奏楽部の音。美術部の絵の具の匂い。誰かの笑い声。

 湊は手帳を開いて、今後の調査の計画を書いた。

 一。素材⑤の声の主を特定する手がかりを探す。  二。奈央が消した音声データの内容を間接的に推測する。  三。あの夜、旧特別棟にいた人間を一人ずつ確認する。

 三番目が一番難しい。十分間の空白の間に、誰が、どこにいて、何をしていたのか。それを聞くには、一人ずつ、会わなければならない。

 次は深澤颯真だ。サッカー部。あの夜、旧特別棟の近くにいた可能性がある。

 窓の外で風が吹いた。銀杏の葉が数枚、校庭に落ちていった。