土曜日の午前、旧特別棟。三度目の訪問で、湊の足はもう迷わなかった。立入禁止のテープをくぐり、玄関を開け、機材室に入る。電源コードを繋ぐ。MDプレーヤーの赤いランプ。
素材⑥を入れた。
録音日は十月五日。場所は駅前のロータリー。インタビュー対象は、バス待ちの主婦。五十代くらいの声。
「この街で好きな音? そうねえ……夕方の防災無線かしら。五時になると流れるでしょ、あの音楽。子どもが帰ってくる合図なのよ。あの音が聞こえると、ああ今日も無事だったって思うの」
美空が「無事だったって、毎日思うんですか」と聞いた。
「毎日よ。子どもが小さい頃は特にね。大きくなっても、あの音を聞くと条件反射みたいに安心するの。変かしら」
「変じゃないです。すごく、いいと思います」
美空の声が柔らかかった。相手の言葉をそのまま受け止める声。批評しない。評価しない。ただ聞いて、「いいと思います」と返す。
素材⑥はそれで終わった。五分弱。静かな録音。
素材⑦を入れた。
録音日は十月十四日。場所は、学校の中庭。昼休みの雑踏が背景に聞こえる。インタビュー対象は中学生。男子。声が少し高い。
「好きな音? ゲームのBGM? いや、違うな。えっと、自転車のチェーンの音。坂を下るとき、ペダル止めてもチェーンがカラカラ鳴るやつ。あれ好き」
「どうして好きなの?」
「なんか、自由な感じがするから。漕がなくても進んでるっていうか」
美空が笑った。「いい表現だね」。
録音が続いた。中学生が帰った後。美空の独り言が入っていた。
テスト録音の消し忘れではない。意図的に録音を続けている。美空はマイクに向かって、小さな声で呟いた。
「もう少し踏み込んでいいのかな。聞きたいことがある。でも、聞いたら変わっちゃう。聞かなければ、今のまま続く。どっちがいいんだろう」
録音が止まった。
湊はMDプレーヤーの前に座ったまま、美空の言葉を反芻した。
「もう少し踏み込んでいいのかな」。
奈央が言った。「いい人は、ときどき怖い。善意で人の境界線を越える」。
美空自身も、その境界線に気づいていた。踏み込むべきか、踏み込まないべきか。聞くべきか、聞かないべきか。
そして、踏み込んだ。素材⑧の末尾の録音がそれを証明している。「ごめんなさい。勝手に聞いてしまって」。
湊は自分の手を見た。取材ノートを持つ手。ペンを握る手。
自分も同じことをしている。
奈央に聞いた。「なぜ消したの」。澪に聞いた。「美空さんのこと?」。答えたくない人に、聞きたいことを聞いている。新聞部の取材だと言えば正当化できる。真実を追い求めていると言えば正しく聞こえる。
でも美空もそうだった。声の地図という企画があれば、聞くことが正当化できた。誰かの声を録ることは善いことだと思えた。
境界線を越えていたのは、美空だけじゃない。
湊はMDを取り出して、機材室を出た。
一階の廊下を歩きながら、窓の外を見た。グラウンド。空。十月の雲。
部室に戻った。鞄から取材ノートを出した。去年の十月のページ。美空の音声作品を文字起こしした記録。
その数ページ後に、統廃合に関する取材メモがある。回答率三十二パーセントの生徒アンケート。来月号の記事の素材。
湊は一年生の二人のことを考えた。文化祭特別号の印刷を一緒にやった。紙詰まりを直した。彼女たちにとって、新聞部は部活であり日常だ。統廃合の記事は、彼女たちが書けばいい。むしろ、在校生の目線で書く方が適切だ。
月曜日の放課後、一年生に伝えた。
「来月号の統廃合記事、二人に任せたい。取材先のリストとアンケート結果のデータは引き継ぐから」
「え、先輩がやらなくていいんですか?」
「僕は別の調べものに時間を使いたくて。新聞部の仕事は大事だけど、今は、個人的に追いかけたいことがある」
一年生は顔を見合わせて、それから頷いた。「分かりました」。頼もしい。
部室を出て、廊下を歩いた。放課後の校舎。吹奏楽部の音。美術部の絵の具の匂い。誰かの笑い声。
湊は手帳を開いて、今後の調査の計画を書いた。
一。素材⑤の声の主を特定する手がかりを探す。 二。奈央が消した音声データの内容を間接的に推測する。 三。あの夜、旧特別棟にいた人間を一人ずつ確認する。
三番目が一番難しい。十分間の空白の間に、誰が、どこにいて、何をしていたのか。それを聞くには、一人ずつ、会わなければならない。
次は深澤颯真だ。サッカー部。あの夜、旧特別棟の近くにいた可能性がある。
窓の外で風が吹いた。銀杏の葉が数枚、校庭に落ちていった。