小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第6話「絵のなかの校舎」

2,062文字 約5分

金曜日の放課後、文化祭の準備で校舎が騒がしかった。

 渡り廊下にダンボールが積まれている。体育館からバンド練習の音が漏れている。二年三組は教室全体をお化け屋敷にするらしく、黒い布が窓に貼られていた。

 湊は新聞部のブースの準備をしていた。文化祭特別号の印刷。部数は二百。一年生の二人と三人で、印刷機と格闘していた。

「先輩、紙詰まりです」

「裏蓋開けて。引っ張らないで、ゆっくり」

 紙詰まりを直して、印刷を再開して、また詰まって。三時間かかった。

 一年生が先に帰って、湊は刷り上がった新聞を段ボールに詰めた。腕にインクがついている。指先が紙で乾燥してかさかさしている。

 部室を出ると、廊下の向こうに美術室の明かりが見えた。

 足が止まった。

 美術室のドアは開いていた。中に澪がいた。キャンバスに向かっている。前に通りかかったときと同じ姿勢。だが、絵が違う。

 前回見たのは、校舎裏の夕焼けの空だった。

 今、澪が描いているのは、建物だった。

 二階建て。鉄筋コンクリート。外壁の塗装が剥がれている。窓はベニヤ板で塞がれている。入口に色あせたテープ。

 旧特別棟だ。

 湊は美術室の入口に立ったまま、絵を見つめた。

 水彩だが、色づかいが暗い。紫と灰と、錆のような茶色。夕暮れの旧特別棟。建物の輪郭は正確で、窓の位置も、階段の場所も、ベニヤ板の釘の位置まで描かれている。何度も見ている人間の絵だ。

 二階の窓が、一つだけ開いていた。

 他の窓はすべて閉じているか板で塞がれているのに、二階の一番奥の窓だけが開いている。窓の向こうに、オレンジ色の光。夕日ではない。もっと内側の光。

 湊の喉が詰まった。

 あの窓は、美空が転落した窓だ。

「……湊?」

 澪が振り返っていた。筆を持ったまま。目が少し見開かれている。見られることを想定していなかった顔。

「ごめん。通りかかって、開いてたから」

「……うん」

 澪は絵に視線を戻した。筆を動かさない。止まっている。

 湊は美術室に入った。許可は得ていないが、出ていけとも言われなかった。

 キャンバスの前に立った。近くで見ると、筆の跡が見える。迷いなく描かれた線と、何度も塗り重ねて修正した場所がある。建物の輪郭は一発で決まっている。二階の窓だけが、何度も塗り直されていた。

「これ、文化祭に出すの?」

「……出さない。これは、自分用」

「自分用」

「描かないと、忘れちゃうから」

 忘れる。何を。

「旧特別棟、来年壊されるでしょ。壊される前に描いておきたくて。行ったことはないけど、外から見た感じで」

「行ったことない?」

 澪が少し間を置いた。

「ない。中に入ったことはない」

 嘘ではないかもしれない。嘘かもしれない。湊には判断がつかなかった。だが、この絵の精度は「外から見た感じ」で描ける範囲を超えている。窓枠の形、壁のひび割れの位置、配管の走り方。中に入った人間か、中の構造を知っている人間の描写だ。

 聞かなかった。

 代わりに、別のことを聞いた。

「澪。前に通りかかったとき、絵を描いてる顔が、いつもと違った」

「……どう違った?」

「怒ってるように見えた」

 澪の手が止まった。筆を持つ指が白くなった。握りしめている。

 五秒。十秒。

「怒ってた」

 澪はそれだけ言った。小さな声で。認めることに体力が要るような声だった。

「何に」

「分からない。描いてるときだけ、怒りが出てくるの。普段は、出さないようにしてるから」

 普段は出さないようにしている。口角が上がって、目が遅れて追いつく、あの笑顔。あれは、怒りを出さないための表情だったのか。

「美空さんのこと?」

 湊が聞いた。聞くべきではなかったかもしれない。でも聞いた。

 澪は筆を水の入った瓶に浸した。水が茶色く濁った。

「美空のことだけじゃない。みんなのこと。あの夜のこと。何があったのか誰も言わないこと。私も言えないこと。全部に、怒ってる」

 私も言えないこと。

 澪は、何かを知っている。

「澪」

「湊。今は聞かないで」

 澪の声は震えていなかった。むしろ、静かだった。怒りを認めた後の、少しだけ軽くなった声。

「聞かないでっていうのは、永遠にじゃないの。今は。まだ、整理がつかないから」

「……分かった」

 湊は美術室を出ようとした。

「湊」

 振り返った。

 澪はキャンバスに向き直っていた。背中しか見えない。

「あの建物を、中も、見てきた?」

 湊は一秒だけ迷った。

「見た」

「何か、あった?」

「美空さんの録音が残ってた。MDで」

 澪の背中が、わずかに硬くなった。

「……そう」

 それだけだった。振り返らなかった。筆を取って、絵の続きを描き始めた。

 湊は美術室を出た。

 廊下を歩く。文化祭の準備の喧騒が遠くに聞こえる。誰かが笑っている。ダンボールを運ぶ音。

 澪は怒っている。全部に。何があったのか誰も言わないことに。自分も言えないことに。

 言えないのは、夢漏れのせいか。眠ると他人の夢を口にしてしまう異変。事故の夜に、誰かの夢を口にしてしまったのか。

 分からない。今は聞くなと言われた。

 だから、待つ。

 帰り道、空は曇っていた。金木犀の匂いはもう消えていて、代わりに枯れ葉の匂いがし始めていた。季節が一つ、進んでいる。