二日間、湊は何もしなかった。
授業を受けた。ノートを取った。新聞部の原稿を書いた。文化祭の展示企画の打ち合わせに出た。帰宅して、夕飯を食べて、風呂に入って、寝た。
奈央の言葉が、ずっと頭の中にあった。
「知ったら、誰かを傷つける。知らなければ、傷つかない人がいる。それでも知りたいの?」
答えが出なかった。
三日目の放課後。
湊は美術室の前を通りかかった。ドアが開いていて、中から絵の具の匂いがした。澪がキャンバスに向かっていた。文化祭の展示用の絵。水彩。
描いているのは風景だった。校舎の裏手から見た空。夕方の、オレンジと紫が混ざる時間帯の空。雲が長く伸びている。
澪は湊に気づかなかった。筆を動かすことに集中していた。表情がいつもと違う。教室で見せる、少し遅れて目が追いつく笑顔ではなく、何も作っていない、素の顔。
湊は声をかけずに通り過ぎた。
素の顔の澪は、少しだけ怒っているように見えた。何に怒っているのかは分からない。分からないが、その表情は湊の記憶に残った。
部室に戻り、鞄を置いた。一年生の二人は今日も文化祭の会議に出ている。一人。
机の引き出しを開けた。素材⑧のMDディスクが入っている。ポケットに移した。
裏口から外に出て、旧特別棟に向かった。三度目だ。
立入禁止のテープ。玄関。埃。足跡は、前回と前々回の自分のものだけが残っている。
一階の機材室。棚の前にしゃがむ。
MDディスクの列を端から見ていく。ラベルを一枚ずつ読む。
「声の地図 素材①」から「声の地図 素材⑧」まで。八枚。全部ある。奈央が消したのはパソコンのデータとSDカードのバックアップで、MDの原本は全てここに残っている。
素材⑧以外の七枚に、何が入っているのか。
電源コードを繋いだ。MDプレーヤーの赤いランプが灯る。
素材①を入れた。再生。
ノイズ。ザー、という砂の音。そして美空の声。
「今日は八月二十日。星原駅の待合室です」
夏の録音。場所は駅の待合室。インタビュー対象は、電車を待っている老人。「この街で好きな音は」。老人は少し考えてから、「踏切の音かなあ。カンカンカンって。子どもの頃から変わらないから」と答えた。
美空が「変わらないって、いいことですか?」と聞いた。老人が笑って、「さあ。でも、変わらないものがあると安心するじゃないか」と言った。
素材①は、それだけだった。四分ほどの取材音源。末尾に不審な断片はない。普通の、丁寧な、声の記録。
素材②。九月三日。公園のベンチ。犬の散歩をしている女性。好きな音は「うちの犬が水を飲む音」。美空が笑う声が入っている。
素材③。九月十日。図書館。司書の男性。好きな音は「本のページをめくる音。でも最近は電子書籍が多くて」。
素材④。九月十八日。商店街の魚屋。好きな音は「氷を砕く音」。
湊は一枚ずつ再生して聴いた。全部聴いた。
素材⑤で、少し変わった。
録音場所が変わっていた。室内。反響音から、狭い部屋、学校の教室か、それに近い広さ。インタビュー対象は、名前を名乗らなかった。
美空が聞いた。「この街で好きな音は?」
沈黙が長かった。十秒。十五秒。
それから、声がした。低い。若い。男子の声。
「……ない。好きな音なんて、ない」
美空が「ないですか」と返した。責めるトーンではない。ただ受け止める声。
「でも、嫌いな音ならある」
「何ですか」
「みんなが黙る音。教室で誰かが何か言って、その後に全員が黙る瞬間。あの沈黙が嫌い」
美空が何か言おうとした。だが相手が続けた。
「黙ることで、全員が同意したことになるだろ。言わないことが、賛成になる。あれが、嫌いだ」
録音が終わった。
湊はMDプレーヤーの前に座ったまま、しばらく動けなかった。
この声を、知っている。
誰の声か、特定はできない。だが、この言葉の刺さり方。「黙ることが同意になる」。それは、湊自身が、ずっと感じていたことだ。
美空は、声の地図を作る過程で、こういう声も集めていた。街の人々の「好きな音」だけではなく、「嫌いな音」「怖い音」「聞きたくない音」も。
奈央が消したのは、こういう録音かもしれない。表に出すべきではない声。傷つく人がいる声。
でも、この声は、聞かれるべきじゃなかったのか。
「黙ることが同意になる」と言った人間の声は、消されるべきだったのか。
湊は素材⑤のMDを取り出した。残りの⑥と⑦はまだ聴いていない。今日はここまでにする。
機材室を出た。廊下を歩く。窓の外はもう暗い。グラウンドに人影はない。
奈央が聞いた。「それでも知りたいの?」
知りたい。
理由は、正義じゃない。真実を暴くためでもない。
美空が集めた声を、消えたままにしたくない。それだけだ。閉校になれば、この建物も、このMDも、全部なくなる。誰かが「黙ることが同意になる」と言った声が、埃の中で消える。
それが嫌だ。
理由としては、弱い。不十分かもしれない。でも今の湊には、それしかなかった。
帰り道、イヤホンをつけた。音楽を再生した。
でも、耳の奥には、「好きな音なんて、ない」という声が、まだ残っていた。