放課後、湊は放送室に向かった。今度はノックして、返事を待った。
「どうぞ」
奈央は一人だった。機材の点検をしている。卓上ミキサーのフェーダーを一つずつ動かして、ヘッドフォンで音を確認している。ケーブルの束が膝の上にある。
「倉橋さん」
「柊くん。また来たんだ」
また。前回の訪問を覚えている。当然だろうが、声に微かな警戒が混じっていた。
「聞きたいことがあって」
「ノイズの件? 前にも言ったけど、古い機材のデータが」
「違う話。声の地図のことで」
奈央のヘッドフォンを外す手が止まった。ほんの一拍。フェーダーに置いた指が、わずかに力を込めた。ミキサーのレベルメーターが揺れた。
「声の地図?」
「美空さんが作っていた音声ドキュメンタリー。素材テープが旧特別棟の機材室に残ってた。MDで」
奈央は椅子ごと湊の方を向いた。動きがゆっくりだった。時間を稼いでいるのか、言葉を選んでいるのか。
「……聴いたの?」
「素材⑧だけ。電源コードを持っていって、旧特別棟のMDプレーヤーで再生した」
沈黙。放送室のスピーカーから微かにホワイトノイズが漏れている。蛍光灯のジーという音。廊下の向こうから吹奏楽部のクラリネットが聞こえる。ロングトーンの練習。
「素材⑧の中身は、北口商店街のインタビューだった。花屋のおばさんと、金物屋の主人と、薬局のおじいさん。それは普通の取材音源だった」
奈央は黙っている。
「でも、その後に別の録音が入ってた。場所が変わって、室内で。美空さんが誰かに、『ごめんなさい、勝手に聞いてしまって』と言ってた。相手は黙ってた」
奈央の顔色が変わった。
今まで見た奈央の表情は、すべてコントロールされていた。初めて会ったときの「自然すぎる笑顔」も、今日の「微かな警戒」も、どこかで計算が入っていた。
今の奈央は、計算していない。
唇が薄く開いて、目がわずかに見開かれている。恐怖ではない。もっと深いところにあるもの。罪悪感に似たもの。
「……それ、全部聴いた?」
「全部。録音はそこで途切れてた。美空さんが『あなたの声も』と言いかけたところで」
奈央が目を閉じた。五秒。十秒。
開いたとき、目が赤くなっていた。泣いてはいない。泣く手前で止めている。
「柊くん。それ以上のMDは、聴かないで」
「……他にもあるの?」
「あるかもしれない。ないかもしれない。でも、聴かないでほしい」
「なぜ」
「私が消したから」
湊の呼吸が止まった。
「消した? MDを?」
「MDじゃない。パソコンの中のデータ。美空が編集用に取り込んでいた音声ファイル。SDカードにバックアップしてあったものも。事故の後、私が全部消した」
奈央の声は平坦だった。事実を報告するような声。だが手がミキサーの角を握りしめていて、指先が白くなっている。
「なぜ消したの」
「守りたかったから」
「誰を」
奈央は答えなかった。
廊下のクラリネットが止まった。代わりにトランペットが鳴り始めた。高い音。放送室の壁を通り抜けて、薄く聞こえる。
「美空は、いい人だった。本当にいい人だった。でも、いい人は、ときどき怖い。善意で人の境界線を越える。聞いてほしくないことを聞いて、残してほしくないものを残す。私は」
奈央の声が途切れた。
「私は、美空が残したものの中に、残してはいけないものがあると思った。だから消した。正しかったのかどうか、今でも分からない」
湊は何も言えなかった。
奈央が守ろうとした「誰か」。美空が境界線を越えて聞いてしまった「何か」。消された音声の中に、それがあった。
そしてMDの素材テープは、パソコンのデータとは別の媒体だから、奈央の消去を免れて旧特別棟に残っていた。
「素材⑧のMDは、消し忘れ?」
奈央が小さく頷いた。
「MDは古すぎて……パソコンに取り込んでなかった。棚に置いたままだった。存在を忘れてた」
つまり、湊が聴いた録音は、奈央のフィルターをすり抜けたものだった。消されるべきだったのに、消されなかったもの。
湊はポケットの中のMDディスクに触れた。プラスチックのケースが指先に冷たい。
「倉橋さん。僕は犯人を探してるわけじゃない。美空さんを殺した人がいるとも思ってない」
奈央が湊を見た。
「ただ、何があったのかを知りたい。なぜ十分遅れたのか。なぜみんな黙っているのか。それだけなんだ」
「それだけ、じゃないでしょう」
奈央の声は静かだった。
「知ったら、誰かを傷つける。知らなければ、傷つかない人がいる。それでも知りたいの?」
湊は答えられなかった。
放送室を出た。廊下を歩く。足音がコンクリートに響く。窓から見えるグラウンドは、夕日でオレンジ色に染まっていた。
奈央は音声を消した。美空が残したものを、守るために。
美空は誰かの秘密を録音した。善意で。
守るために消した人間がいて、善意で録ってしまった人間がいて、その間に、十分間の空白がある。
帰り道、イヤホンをつけなかった。
風の音を聴きながら歩いた。