小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第3話「声のかけら」

2,376文字 約5分

電源コードは、部室の棚の奥にあった。

 新聞部のデスクトップパソコン用の予備ケーブルの束に紛れて、MDプレーヤーに合う三芯のコードが一本だけ残っていた。丸めてビニールタイで留めてある。埃をかぶっている。たぶん何年も使われていない。

 放課後、湊はそのコードをリュックに入れて部室を出た。

 一階の廊下を歩いていると、渡り廊下の角で人とぶつかりそうになった。

 早瀬澪だった。

 美術部の画材を抱えている。キャンバスの端から木枠が覗いて、水彩絵の具のチューブが二本、ポケットから落ちそうになっている。澪はそれを片手で押さえながら、湊を見上げた。

「あ。湊」

「澪。荷物、持とうか」

「大丈夫。慣れてるから」

 そう言いながら、絵の具のチューブが一本落ちた。群青色。湊が拾い上げて渡した。澪の指に水彩の跡が残っている。爪の際に乾いた緑色が入り込んでいる。

「文化祭の準備?」

「うん。展示用の絵を三枚。全然間に合ってないけど」

 澪は笑った。いつもの笑い方だ。口角は上がるが、目が少し遅れて追いつく。笑いたくて笑っているのか、笑うべき場面だから笑っているのか、湊にはときどき分からなくなる。幼なじみなのに、いや、幼なじみだからか。

「湊はこれから新聞部?」

「ちょっと調べものが残ってて」

「ふうん」

 澪の視線が、湊のリュックの横ポケットに留まった。電源コードの端が少しはみ出ている。黒いコードの先端。澪はそれを見て、何も言わなかった。

 何も言わなかったことが、引っかかった。

「澪」

「ん?」

「最近、よく眠れてる?」

 澪の手が、一瞬だけ止まった。画材を持ち直す動作の途中で、指が強張った。ほんの一拍。すぐに動きが戻る。

「……なんで?」

「いや、目の下、ちょっとクマがあったから」

 嘘ではない。嘘ではないが、聞きたかったのはそれだけではない。

 澪は少し黙って、それから言った。

「最近ね、教室で寝ちゃうの。昼休みとか。だから夜眠れなくて」

「逆じゃない? 昼寝ると夜眠れないって、よくあるけど」

「逆なの」澪は廊下の窓の外を見た。グラウンドに西日が落ちている。「夜眠るのが怖いから、昼に寝ちゃう。昼のほうが……人がいるから」

 湊は言葉を探した。見つからなかった。

 澪の「夜眠るのが怖い」は、たぶん、普通の不眠症の話ではない。でもそれ以上聞けなかった。聞いていい領域と、そうでない領域の境界が、幼なじみの間にはある。

「ごめん、変なこと言った。行くね」

 澪はキャンバスを抱え直して、美術室の方向に歩いていった。廊下の奥で振り返らなかった。

 湊は裏口から外に出て、旧特別棟に向かった。

 立入禁止のテープをくぐる。二度目だ。玄関の引き戸を開ける。埃の匂い。前回と同じだ。足跡は、自分のものだけが、薄い埃の上に残っている。

 一階の機材室に入った。棚の上のMDプレーヤーにコードを差し込む。コンセントに繋ぐ。電源ランプがぼんやりと赤く点いた。まだ動く。

 「声の地図 素材⑧」のMDディスクを入れた。

 再生ボタンを押す。

 ノイズ。ザー、という砂の音。古い録音特有の、空気の厚みが聞こえるような雑音。

 そして、声。

「えっと、今日は十月二十一日。星原町の旧市街、北口商店街の入り口です」

 美空の声だった。

 湊は機材の前に座ったまま、動けなくなった。

 一年前に聞いた声と、同じだ。文字起こしをしたときの声と。柔らかくて、少しだけ笑みを含んでいて、マイクとの距離が近い。誰か一人に向けて話しかけるような話し方。

「今日のインタビューは、北口商店街の」

 背景に、風の音が混じっていた。車が遠くを通る音。鳥の声。そして、商店街のBGMらしい古い歌謡曲がかすかに聞こえる。

 美空はインタビュー相手を紹介していた。花屋のおばさん。この街で好きな音は何ですかと聞いている。おばさんが笑って、「朝、シャッターを開けるときのガラガラって音かねえ」と答える。美空が「どうしてですか」と聞く。「一日が始まるなって思うから。もう四十年、毎朝聞いてるけど飽きないのよ」。

 湊は聴き続けた。

 素材⑧は、他の素材と同じ形式の取材音源だった。花屋のおばさん、隣の金物屋の主人、薬局のおじいさん。三人分のインタビュー。それぞれ三分前後。丁寧に、一人ずつ、声を集めている。

 十一分が過ぎた。三人分のインタビューが終わった。

 録音は終わらなかった。

 ノイズの質が変わった。屋外の風音が消えて、室内の反響音に変わった。狭い部屋。コンクリートの壁。足音が近い。

 美空の声が、急に小さくなった。

「ごめんなさい。勝手に聞いてしまって」

 沈黙。相手がいる。相手は何も言わない。

「でも、これは残さなきゃいけないと思うの。あなたの声も」

 録音が途切れた。

 プツ、という短い断絶音。意図的に停止したのか、電池が切れたのか、判別できない。MDプレーヤーが自動で停止し、機材室が静寂に戻った。

 湊は再生ボタンをもう一度押した。ディスクは最後まで再生されていた。もう何も入っていない。

 十一分の取材音源のあとに入っていた、短い会話の断片。

 美空が「ごめんなさい」と言っていた。「勝手に聞いてしまって」。何を聞いたのか。相手は誰か。

 そして、「あなたの声も」。

 声の地図は、街の人々の声を集める企画だ。だが最後のこの断片は、取材対象への話しかけとは質が違った。謝っていた。許可なく聞いたことを。

 美空は、誰かの秘密に触れていた。

 窓の外が暗くなっていた。旧特別棟に残る西日は、いつの間にか消えていた。機材室の中は、MDプレーヤーの赤い電源ランプだけが光っている。

 湊はディスクを取り出した。ポケットに入れた。

 電源を抜き、コードを元通りに丸め、部屋を出た。

 外の空気を吸った。十月の夜のはじめ。金木犀の匂いはもうしない。代わりに、どこかで焚き火の匂いがした。

 耳の奥に、美空の「ごめんなさい」がまだ残っている。

 あの声は、優しかった。でも、優しさだけでは、ない何かが混じっていた。