小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第25話「颯真の数分間」

2,125文字 約5分

サッカーボールが地面を蹴る音には、正しい音と間違った音がある。

 インステップで芯を捉えたときの音は、乾いていて、短くて、空気を裂くような鋭さがある。それ以外の音は全部間違いだ。足の甲の角度がずれていたり、ボールの位置が高すぎたり低すぎたり。間違いの音は鈍くて、湿っていて、尾を引く。

 颯真は練習後のグラウンドで、一人でボールを蹴っていた。正しい音。正しい音。間違いの音。

 三本目で間違えた。

 間違えたとき、視界の端に残像が見えた。蹴らなかった軌道。ボールがゴールの右隅に入るはずだったもう一つの蹴り方。選ばれなかった行動が、薄い光の残像としてグラウンドの空気の中に浮かんで、二秒ほどで消えた。

 この残像が見え始めたのは、一年前からだ。

 事故の後。旧特別棟の入口で立ち止まったあの夜から。

 最初はサッカーのプレーだけだった。蹴らなかったシュート。出さなかったパス。選ばなかった走路。練習中に見えるだけだった。チームメイトには見えていない。颯真だけに見える、選ばれなかった行動の映像。

 一ヶ月経つと、日常にも広がった。教室で。商店街で。通学路で。人が何かを選んだ瞬間に、選ばなかったもう一つの行動が残像として見える。隣の席の生徒が右手でペンを取ったとき、左手で取るはずだった軌道が薄く光る。前を歩く人が交差点を右に曲がったとき、左に曲がるはずだった足取りが一瞬だけ浮かぶ。

 全部が全部見えるわけではない。強い感情を伴った選択のときだけ見える。迷って、迷って、どちらかを選んだとき。選ばなかったほうが残像になる。

 サッカーの試合では使える。相手の選択の残像が見えれば、次の動きを予測できる。だから颯真のプレーは去年より上手くなっている。コーチには褒められる。チームメイトには頼られる。

 だが颯真が見ている残像の中で、最も鮮明なものは、グラウンドの残像ではなかった。

 旧特別棟の入口。あの夜。

 走り出そうとして、止まった自分。

 走り出す軌道が残像として見える。入口から中に入り、暗闭の階段を上がり、二階に向かう自分。その残像は毎日見える。グラウンドに立っているときも、教室に座っているときも、家のベッドに横たわっているときも。

 残像の中の自分は、二階に辿り着いている。美空を見つけている。助けている。

 実際の自分は、入口で止まって、走って帰った。

 ボールを拾い上げた。息が白い。十一月のグラウンドは冷える。日が落ちるのが早い。

 柊湊に話した。昨日。入口にいたこと。入らなかったこと。

 湊は詰めなかった。責めなかった。ただ聞いた。聞いて、ノートに何か書いて、帰った。

 それが逆に辛かった。責めてくれたほうが楽だ。「お前のせいだ」と言われれば、怒ることができる。怒れば楽になれる。だが湊は怒らせてくれない。湊はただ事実を集めている。事実の中に、颯真の選択が一つの断片として配置される。それだけ。

 グラウンドの端に立った。フェンスの向こうに旧特別棟の屋根が見えた。暗い。いつも暗い。

 残像が見えた。

 フェンスを越えて、旧特別棟に走り出す自分。去年の今頃と同じ距離。五分。走れば三分。あのとき走っていれば。

 残像は三秒で消えた。

 颯真はフェンスに背を預けて、空を見上げた。星が見え始めている。十一月の空は澄んでいて、星が近い。去年の事故の夜も、雨が上がった後の空は澄んでいたのだろうか。雨の夜だったから、星は見えなかったはずだ。

 あの夜、入口で止まったのは二分か三分だったと、湊に言った。二分か三分。

 嘘ではない。時計は見ていない。だが体感は覚えている。入口の前で立ち尽くしていた時間。雨が顔に当たっていた。暗闇の中から音が聞こえていた。何かが倒れる音。人の声かもしれない音。

 走り出そうとした。足に力を入れた。だが足が動かなかった。動かなかったのではなく、動かさなかった。

 暗闘の中に入れば、自分も危ない。中に誰かがいるなら、その人が何とかする。俺が行かなくても。

 計算だった。合理的な計算。リスクとリターンの計算。サッカーで覚えた判断速度で、瞬時に計算した。

 計算は正しかったのかもしれない。中に入っても、暗闘の中では何もできなかったかもしれない。千紘が転んだように、颯真も転んだかもしれない。二次被害を防ぐという意味では、入らなかったことは正しかったのかもしれない。

 だが正しさは、一年経っても慰めにならなかった。

 正しくなかったかもしれないもう一つの選択、走り出す選択の残像が、毎日見えている。毎日見えて、毎日消える。消えて、翌日また現れる。

 ボールを蹴った。今度は正しい音がした。乾いて、短くて、鋭い音。ボールがゴールネットに突き刺さった。

 正しい音。

 正しい音だけが鳴る世界なら、どれだけ楽だろう。でも世界にはいつも二つの音がある。鳴った音と、鳴らなかった音。

 颯真にはその両方が聞こえる。

 グラウンドを出た。校門を通った。振り返らなかった。一年前の夜と同じように。

 帰り道。商店街の灯りが温かい。コンビニの看板。自転車のベル。犬の散歩をしている老人。普通の夕方。

 だが颯真の目には、すれ違う人々の選ばれなかった歩み方が薄く光って、消えていく。

 この街の全員が、何かを選んで、何かを選ばなかった。

 颯真だけが、選ばなかったほうを見ている。