小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第24話「停電の十秒」

1,922文字 約4分

十一月の夕暮れは、校舎の窓を琥珀色に染めてから急速に暗くなる。湊は旧特別棟の前に立って、建物を見上げていた。二階の窓が暗い。いつも暗い。

 事故の夜もこの窓は暗かった。非常灯がつかなかったから。

 停電。二十一時五十分頃。

 湊はA3の紙を広げた。三枚目の地図。時系列ではなく、空間の地図。旧特別棟の断面図を描いた。一階。階段。二階。

 千紘の証言で、停電の瞬間を十秒単位で再構成できるようになった。

 二十一時五十分。停電。

 旧特別棟の全ての電灯が消えた。非常灯は点かなかった。桐野先生が半年前に「要修理」と記載した非常灯。修繕されなかった非常灯。

 一階の機材室に千紘がいた。暗闇。千紘は立ち上がった。

 二階の放送機材室に美空がいた。録音の準備をしていた。暗闇になった瞬間、美空は何をしたか。立ち上がったか。動こうとしたか。

 二十一時五十分から数秒後。上階で音がした。千紘はそれを聞いた。「何かが落ちる音」。

 落ちたのは美空か。機材か。両方か。

 音のタイミングを考えた。停電から落下音までの時間。千紘は「すぐだった」と言った。数秒。五秒か十秒か。

 停電の直後に動こうとした美空が、暗闇で足を滑らせたか、何かにつまずいたか。二階の機材室から廊下に出ようとして、廊下の手すりが腐食していた部分に体重をかけたか。

 桐野先生の設備点検記録。非常灯だけでなく、「階段の手すり」にも不具合が記載されていた。手すりの腐食。

 二階の廊下の手すり。窓側。ここが、美空が落ちた場所だった。

 湊は紙に書き加えた。

 21:50:00 停電  21:50:05 美空、二階で動こうとする  21:50:08 美空、廊下の手すりに触れる。手すりが折れる。転落  21:50:10 千紘、一階で落下音を聞く

 推定。だが時間の辻褄は合う。

 千紘は階段を上がろうとした。三段目で足を踏み外した。暗闘だから。非常灯がつかなかったから。

 21:50:15 千紘、階段で転倒  21:50:20 千紘、膝を打って動けなくなる

 動けなかった数分間。千紘は暗闇の中で横たわっていた。一階の階段の踊り場で。

 では颯真は。

 颯真に聞いたのは昨日だった。放課後のグラウンド。颯真はゴールポストの脇にしゃがんでいた。いつもの場所。

「聞いてもいいか。あの夜のこと、もう一度」

 颯真は笑った。いつもの笑顔。だが今回は、笑顔が少しだけ遅かった。〇・五秒。湊にはそれが見えた。

「俺、何も知らないって言ったじゃん」

「ああ。だが部活記録と矛盾がある。事故当日の午後の練習は中止だった。用具室の片づけは午前中に終わっているはずだ」

 颯真の笑顔が薄くなった。

「覚えてないって。一年前だよ」

「覚えてないことと、覚えてないと言うことは違う」

 颯真が湊を見た。笑顔が消えた。初めて、颯真の素の顔を見た。怒りではない。疲労に似ている。毎日同じ演技を続けてきた人間の、演技の裏側にある疲れ。

「旧特別棟の入口にいた」

 颯真の声は低かった。

「美空に呼ばれたわけじゃない。たまたま通りかかった。部活は中止だったけど、学校に残ってた。夜、帰ろうとしたときに旧特別棟の方角から声がした気がして、近づいた」

「声」

「声っていうか、気配。はっきりとは聞こえなかった。雨が降ってたから」

 颯真が立ち上がった。ゴールポストから離れた。グラウンドの端を見ていた。旧特別棟の屋根が木立の向こうに見える。

「入口まで行った。停電が起きた。中が真っ暗になった。音がした。何かが落ちる音」

「入ったか」

「入らなかった」

 颯真の声がかすれた。

「暗くて、中に何があるか分からなくて。怖かった。それと」

「それと」

「誰かがいるなら、俺が助けに行かなくても、その人が何とかするだろうって思った。中に人がいるなら」

 颯真の目がグラウンドの端を見ていた。そこに何かが見えているかのように。見えているのだろう。選ばれなかった行動の残像。入口で立ち止まった自分。走り出そうとしてやめた自分。

「何分くらいそこにいた」

「分からない。二分か三分か。それから帰った。走って帰った。振り返らなかった」

 湊は紙に書き加えた。

 21:50:10 颯真、旧特別棟入口付近。落下音を聞く  21:50:15 颯真、暗闇を見つめる。動かない  21:52頃 颯真、その場を離れる。走って帰る

 千紘は一階で倒れていた。颯真は入口にいた。二人は互いの存在を知らなかった。暗闘の中で。

 湊は旧特別棟の前に立ったまま、夕暮れの光が建物から消えていくのを見ていた。

 停電の十秒。十秒の間に美空は落ちた。千紘は転んだ。颯真は立ち止まった。三人がそれぞれ、暗闇の中で別々の判断をした。

 判断とも呼べないものだ。考える暇がなかった。暗闇で、恐怖で、体が動かなかったか、体が別の方向に動いたか。それだけの差。

 その差が十分間を作った。