小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第23話「声のあいだの距離」

1,617文字 約4分

昼休みの保健室は、養護教諭が昼食に出ている十五分だけ無人になる。千紘はその十五分を知っていて、湊もそれを知っていた。

「続きを聞いてもいいか」

 千紘が頷いた。今日は腕を押さえていなかった。膝の上に両手を重ねていて、指先が微かに動いている。何かの拍子に触れてしまわないよう、自分の手を自分で管理している姿に見えた。

「美空に呼ばれた理由。声の地図の録音だと言ったな。具体的に、何を録りたかったか分かるか」

「言えなかった声。美空はそう言った。『千紘が飲み込んできた言葉を、マイクの前で出してほしい。匿名でいい。名前は出さない。ただ、声だけ』」

「飲み込んできた言葉」

「うん。美空は知ってた。私が、いつも笑っていること。いつも頑張ってること。保健委員で、成績も良くて、友達も多くて。でもそれが全部、しんどいこと」

 千紘の声は平坦だった。感情を載せていなかった。事実を報告する声だ。

「美空にそう言われたとき、何を思った」

「二つのことを同時に思った。聞いてほしい、と。踏み込まないでほしい、と」

 窓の外で、体育館からバレーボールの音が聞こえた。手のひらがボールを叩く音。打点の高い、硬い音。

「矛盾しているのは分かっている。でも本当にそうだった。誰かに気づいてほしかった。でも気づかれたら、自分が壊れる気がした。笑っていられなくなる気がした」

「それで、呼ばれたとき、行ったのか」

「行った。断るために行ったのか、受け入れるために行ったのか、自分でも分からないまま。電車の中でずっと考えてた。どっちだろうって」

「結論は出た?」

「出ない。出ないまま旧特別棟に着いた。美空が二階にいて、私は一階で待ってて。待っている間もずっと考えていた。受け入れたら何が変わるのか。断ったら何が残るのか」

 千紘の指が動きを止めた。

「停電が来て、考える時間が終わった。暗くなって、何も見えなくなって、考えるどころじゃなくなった。上から音がして、階段で転んで。結局、答えを出す前に全部が終わった」

 保健室の時計が秒針を刻んでいる。カチ、カチ。養護教諭が戻ってくるまであと七分。

「千紘。一つだけ聞いていいか」

「うん」

「もし停電がなかったら。美空の前でマイクを渡されたら。話したか」

 千紘が窓を見た。バレーボールの音が続いている。打点、落下、床に弾む音。繰り返し。

「分からない。でも、たぶん」

 千紘が湊を見た。

「泣いたと思う。マイクの前で。言葉にならないまま、泣いたと思う。それが美空の欲しかった声だったのかどうかは、もう聞けないけど」

 湊はメモを取らなかった。

 千紘の言葉は、メモにするには柔らかすぎた。紙に書けば硬くなる。硬くなれば嘘になる。

 養護教諭が廊下を歩いてくる音がした。ヒールが床を叩く規則的な音。

「ありがとう。また来る」

「うん。次は、何を聞くの」

「まだ分からない。分かったら来る」

 保健室を出た。廊下。チャイムが鳴った。五限目の始まり。

 湊は教室に向かって歩きながら、千紘の言葉を反芻していた。

 聞いてほしい。踏み込まないでほしい。同時に。

 美空は踏み込んだ。善意で。千紘の痛みに気づいて、声を録りたいと言った。それは善意だ。だが善意が、千紘を苦しめてもいた。

 美空が集めようとしていたのは、飲み込まれた声だった。飲み込まれた理由があるのに、それを掘り起こすことは、正しかったのか。

 湊自身がやっていることも同じだ。千紘に「聞いてもいいか」と前置きして、話させている。話したいかどうかは千紘が決めることだが、聞く側が場を作ることで、話さざるを得ない空気を生んでいる。

 美空と、俺と、何が違うのか。

 教室のドアを開けた。席に座った。数学の授業が始まった。

 黒板にグラフが描かれていく。二次関数の放物線。上がって、下がって、一つの頂点を通過する。

 千紘の声も、上がって、下がって、一つの頂点を通過していた。「泣いたと思う」。あの一言が頂点だった。

 湊はノートに数式を書きながら、もう一つのノートに何も書かなかった。