小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第21話「アリバイの崩壊」

2,036文字 約5分

十一月の放課後は、教室の窓から差し込む光がいつもより低い角度で机を横切り、椅子の影が廊下の壁まで細長く伸びている。

 湊は職員室の前を通り過ぎて、保健室に向かった。

 突きつけるつもりはなかった。矛盾を証拠として並べて、相手を追い詰めるやり方は、湊のものではない。聞きたいのは事実だが、事実を強制的に引き出すことと、相手が自分の言葉で語ることの間には、声の温度が違うくらいの差がある。

 保健室のドアを開けた。千紘がベッドの横の椅子に座っていた。左腕を押さえている。いつもの姿勢だった。

「聞いてもいいか」

 千紘が顔を上げた。笑っていた。いつもの笑顔。だが今日は笑顔の下の手が震えていなかった。震える準備ができているような、覚悟の混じった静けさがあった。

「うん」

「あの夜のこと。前に聞いたときの答えと、少し違うことがあるかもしれない。違うなら、違うほうを聞きたい」

 千紘は保健室の窓を見た。窓の外は校庭で、体育の授業をしている学年がいた。ボールが弾む音が、ガラス越しにくぐもって聞こえてくる。

「保健室にいた、って言ったよね」

「ああ」

「嘘じゃないの。保健室にはいた。でも、その前に」

 千紘の声が低くなった。笑顔が消えた。消えたのではなく、外れた。仮面が外れるように、表情の構造が変わった。

「旧特別棟の一階にいた。美空に呼ばれて」

 湊は黙った。黙ることが、続きを促す合図になると知っていた。

「美空がメッセージをくれたの。『今夜、旧特別棟に来てほしい。話したいことがある』って。私は保健委員だから、夜に校舎に残っていても怪しまれない。保健室の鍵を使って入って、旧特別棟に行った」

「何時頃だ」

「九時半くらい。美空はもう中にいた。二階の機材室に」

「二階に」

「うん。私は一階で待っていた。美空が『準備ができたら呼ぶから』って」

 ボールの音が止んだ。体育の授業が終わったのだろう。笛の音。生徒の声。足音が遠くなっていく。

「準備って、何の」

「声の地図の録音。美空は、私の声を録りたかったの。言えなかった声を」

 千紘の左腕が小さく動いた。押さえるのではなく、離す動き。腕から手を放して、膝の上に置いた。

「待っているあいだに、停電が起きた。全部暗くなった。非常灯もつかなかった」

「非常灯がつかなかった」

「そう。真っ暗。何も見えなくなって、パニックになった。上の階から音がして、美空が何か落としたのかと思って、階段を上がろうとした。でも暗くて、三段目で足を踏み外して転んだ」

 千紘の声がかすれた。水を飲みたそうに見えたが、湊は動かなかった。ここで水を出せば、千紘の言葉が途切れる。途切れたら戻ってこないかもしれない。

「転んで、膝を打って、しばらく動けなかった。動けない間に、上から何かが落ちる音がした。重い音。それが」

「美空が」

「分からない。分からなかった、そのときは。暗くて何も見えないから。ただ音だけが聞こえた」

 保健室の時計が秒針を刻んでいた。カチ、カチ、カチ。規則的な音が、千紘の不規則な呼吸の間を埋めている。

「それで、どうした」

「起き上がって、外に出た。外も暗かった。雨が降っていた。保健室に戻って、朝まで一人でいた」

「誰にも言わなかった」

「言えなかった。何が起きたか分からなかったから。朝になって、美空のことを聞いて、それで」

 千紘が唇を噛んだ。笑顔は戻ってこなかった。

「それで、あの夜のことを誰にも言えなくなった。言ったら、私があの場所にいたことが分かる。いたのに助けられなかったことが分かる」

 湊は取材ノートに何も書かなかった。書くべきことは全部、頭の中にある。

 千紘はあの夜、旧特別棟にいた。美空に呼ばれていた。美空は「最後に話したい人たち」を集めようとしていた。千紘はそのうちの一人だった。

 一人。では、他にも呼ばれた人間がいたのか。

「千紘。美空は、お前以外にも誰かを呼んでいたか」

 千紘が首を振った。

「分からない。美空は私に『来てほしい』とだけ言った。他の人のことは言わなかった。でも」

「でも?」

「美空のノートに書いてあった四人。怒っている人、黙り続けている人、正しかったと思い込んでいる人、痛みを肩代わりしている人。あれが四人分の招待だったとしたら」

 千紘が湊を見た。笑顔のない顔。

「私は四番目だと思う。痛みを肩代わりしている人」

 窓の外で、次の授業のチャイムが鳴った。校舎の中を音が伝わっていく。階段を上がり、廊下を走り、教室の壁に当たって跳ね返る。学校という建物は、音を増幅する構造をしている。

 保健室を出た。廊下を歩いた。

 美空は四人を呼んだ。声の地図の最終録音のために。言えなかった声を録るために。

 四人のうち、千紘は来た。残りの三人は。

 怒っている人。澪か。

 黙り続けている人。颯真か。

 正しかったと思い込んでいる人。桐野か。

 来たのか。来なかったのか。来て、途中で帰ったのか。

 廊下の窓から旧特別棟が見えた。灯りのない建物。取り壊しまであと数ヶ月。

 あの建物の中で、あの夜、何人の人間がいたのか。湊はまだ全てを知らない。