新聞部の部室は、本棟二階の突き当たりにある。
かつて理科準備室だった部屋を転用したもので、壁の一面に理科実験用の古い棚が残っている。棚の中身は試薬ではなく、過去十年分の学校新聞のバックナンバーと取材資料のファイルが詰め込まれている。窓際にデスクトップパソコンが一台。動作は遅いが、テキストの編集と印刷には足りる。
放課後、湊は一人で部室にいた。
新聞部の部員は今年度三人。二年の湊と、一年の女子二人。一年生は今日、文化祭実行委員会の会議に出ている。部室は静かだった。廊下の向こうから吹奏楽部の音がかすかに聞こえる。トランペットのロングトーン。同じ音が繰り返される。
湊は棚の前にしゃがみ、去年の九月から十二月のファイルを探した。茶色の紙ファイルに年月がマジックで書かれている。字が雑だ。前部長の字。去年の三月に卒業した。
二〇二四年十月号。
見つけた。
ファイルを開く。紙面のコピーが挟まれている。B4の紙に、四段組みの記事がいくつか。統廃合の続報。文化祭の告知。部活動の大会結果。
三面の左下に、小さな記事があった。
見出し。「旧特別棟で事故 放送部員が転落 有馬さん死亡」
六行。
六行しかなかった。
十月の号は文化祭特集がメインで、紙面の大半がそちらに割かれていた。事故の記事は三面の隅に押し込まれている。書いたのは前部長だ。事実関係だけを淡々と記述している。九月二十七日夜、落雷による停電中に旧特別棟二階から転落。発見は午後十時四十分頃。搬送先の病院で死亡が確認された。
記事の末尾に一行。「事故の詳細については学校側が調査中です」。
調査中。その後の号に続報はなかった。十一月号も、十二月号も。調査は終わったのか、終わらなかったのか。それとも、続報を書く人間がいなかったのか。
前部長は事故のことを避けていた。三年生で受験があったのもあるだろうが、事故に関する取材メモが一枚も残っていない。通常、新聞部の取材には必ずメモが残る。ルールだ。先輩がそれを破ることはない。
メモを取らなかったのか。メモを取って、捨てたのか。
湊は記事の六行を読み返した。
「午後十時四十分頃発見」。
転落が起きた時刻は書かれていない。停電は午後九時五十分前後に発生している。当日の気象記録は公開されている。去年調べた。午後九時四十八分に星原町で最大瞬間風速二十一メートルを記録。その前後に落雷が集中している。
停電が九時五十分。発見が十時四十分。五十分間。
五十分の間に何があったのか。
事故報告書、学校が保護者と教育委員会に提出したもの、を湊は読んだことがない。閲覧は制限されている。だが去年、統廃合に関する記事を書くために教頭に取材した際、事故に少しだけ触れたことがある。教頭の言葉を思い出す。
「美空さんの転落は、停電から間もない時間帯に起きたと考えられています。救急車の到着は十時三十二分。搬送後、十一時十五分に死亡が確認されました」
停電から間もない時間帯。つまり、十時前後。発見が十時四十分。
転落から発見まで、およそ四十分。
四十分。
旧特別棟は校舎の敷地内にある。本棟からの距離は百メートルもない。夜間であっても、声を上げれば聞こえる距離だ。停電で暗かったとしても、四十分は長すぎる。
いや。
湊は記事をもう一度読んだ。教頭の言葉を正確に反芻した。
「救急車の到着は十時三十二分」。救急車の到着。つまり通報からの時間がある。この地域の救急車の平均到着時間は八分前後だ。十時三十二分に到着したなら、通報は十時二十四分頃。
発見が十時四十分。これは記事の記述だ。だが、通報が十時二十四分なら、発見はそれより前のはず。発見して、通報するまでの時間差を考えても、発見は十時二十分前後。
新聞記事の「十時四十分頃発見」は、何を指しているのか。
搬送時刻と矛盾している。
記事の誤りか。それとも、「発見」の定義が違うのか。最初に転落した美空を見つけた人間と、正式に「発見者」として記録された人間が、別なのか。
湊は赤ペンを取り出して、記事の「十時四十分頃」に丸をつけた。
部室を出た。
校舎の一階を抜けて、裏口から外に出る。九月の夕方。日差しは傾いているが、まだ明るい。グラウンドの向こうに旧特別棟が見える。
旧特別棟は本棟から五十メートルほど離れた場所に建っている。二階建て。鉄筋コンクリート造。外壁の塗装が剥がれて、下地のコンクリートが露出している箇所がある。窓は全て閉められていて、一部はベニヤ板で塞がれている。入口には「立入禁止」のテープが貼ってあるが、テープは風雨で色褪せて、端が剥がれてひらひらしていた。
統廃合が決まってから、旧特別棟の取り壊しも決まった。来年の三月以降に解体される予定だ。中に残った機材や資料は、処分されるか、どこかに移されるか。誰もまだ決めていない。
湊は立入禁止のテープの前で立ち止まった。
入るべきかどうか、考えた。
新聞部員として取材するなら、許可を取るのが筋だ。教頭か、管理の担当教員に申請を出す。だが申請を出せば、何を調べているのかを説明しなければならない。一年前の事故を調べている、とは、まだ言いたくなかった。
言いたくない理由が、自分でもよく分からなかった。
テープをくぐった。
玄関の引き戸は錆びついていたが、力を入れれば開いた。鍵はかかっていない。中に入ると、埃の匂いがした。乾いた、古い紙と木材の匂い。廊下の床にはうっすらと埃が積もっている。足跡はない。しばらく誰も入っていないのだろう。
一階の廊下を歩く。右側に教室が二つ。かつて放送部と地域のコミュニティFMが使っていた部屋だ。ドアを開ける。
機材が残っていた。
棚の上に、カセットデッキとMDプレーヤーが並んでいる。埃をかぶっている。卓上ミキサー。ケーブルの束。マイクスタンドが一本、壁に立てかけてある。棚の下段には、ラベルの貼られたカセットテープとMDディスクが何十本も詰め込まれていた。
湊はラベルを一つずつ読んだ。日付と内容が手書きで記されている。ほとんどは放送部の活動記録だ。校内放送の原稿読み合わせ、番組の収録、取材音源。
古い順に並んでいる。最も古いのは十五年前のカセットテープだ。最も新しいのは、
去年の九月。
ラベルには「声の地図 素材⑧」と書かれていた。
湊の指が止まった。
声の地図。美空が作っていた音声ドキュメンタリーだ。去年の秋、文字起こしを手伝ったときに聞いた。商店街の人々の「この街で好きな音」を録音した企画。あの文字起こしの元になった音源は、美空の作品の一部だった。
素材⑧。八番目の素材。つまり少なくとも八本以上の録音が存在する。湊が文字起こしを手伝ったのは完成版に近いもので、そこには複数の素材が編集されて入っていた。だが個別の素材テープがここにあるということは、編集前の生の録音が残っている。
手に取った。MDディスク。重さはほとんどない。プラスチックのケースが指に冷たい。
再生する手段がない。ポケットにはスマートフォンしかない。MDプレーヤーは棚の上にあるが、電源コードがない。コンセントはある。コードを探せば。
天井から、音がした。
コン、と一回。軽い打撃音。木か、コンクリートに何かがぶつかる音。
二階だ。
湊は顔を上げた。天井板の向こうに、二階の床がある。旧特別棟の二階は、事故現場だ。
風。窓枠が緩んで、風でがたついているのかもしれない。この建物は老朽化している。風が入れば、いろいろな音がする。
コン。もう一回。
同じ音。同じ場所。風なら不規則になるはずだが、二回目の音は一回目とほぼ同じ間隔、同じ強さだった。
湊は廊下に出た。階段は廊下の奥にある。コンクリートの階段。手すりは鉄製で、触ると錆の粉が指についた。
一段ずつ上がる。階段の途中で、西日が窓から差し込んでいた。埃が光の中を舞っている。金色の粒。
二階の廊下に出た。一階と同じ構造だが、こちらはさらに荒れている。床板が一枚剥がれている箇所がある。壁にひびが入っている。天井から配管がむき出しになっている場所もある。
廊下の奥。最後の教室の前で、湊は立ち止まった。
ドアが、少しだけ開いていた。
隙間から、夕日の赤い光が漏れている。窓が西に面しているのだろう。
音はもうしなかった。
湊はドアを押した。
教室の中は空だった。机と椅子は全て撤去されている。床はコンクリートがむき出しで、窓際に瓦礫のような小さなコンクリート片が散らばっている。窓は一枚だけ、ガラスが割れて板で塞がれていたが、その板が外れかけていた。風が入ると、板がわずかに揺れる。
これか。板が揺れてコンクリートにぶつかる音。
湊は窓に近づいた。二階の窓から外を見る。グラウンドが見える。夕日がグラウンドの土をオレンジ色に染めている。サッカー部の練習は終わったらしく、人影はない。
窓枠の下に、ベランダのような狭い張り出しがある。幅は三十センチほど。手すりはない。
ここから、落ちたのか。
湊は窓枠に手をついた。コンクリートがざらつく。縁が欠けている箇所がある。風が吹くと、頬が冷たい。
下を見た。地面までの高さは約六メートル。コンクリートの地面。落ちれば、骨折はする。ただし、六メートルの高さからの転落で即死するケースは多くない。打ち所次第では、助かる。
教頭の言葉が頭の中で繰り返される。
「救助があと十分早ければ助かった可能性が高い」
教頭はそう言っていない。教頭が言ったのは「停電から間もない時間帯に起きた」と「救急車の到着は十時三十二分」だけだ。十分という数字は、どこから来たのか。
去年の学校新聞のバックナンバーにはなかった。事故報告書にも、少なくとも湊がアクセスできる範囲にはなかった。
なのに、湊は「十分」という数字を知っている。
誰かから聞いた。いつ。どこで。
思い出せない。
教室の空気が冷たくなっていた。日が傾いて、夕日の赤い光が教室の半分から引いている。影が壁を這い上がっている。
湊は教室を出た。階段を降り、一階の廊下を歩き、玄関から外に出た。立入禁止のテープをくぐって、振り返った。
旧特別棟が夕暮れの中に立っている。二階の窓が、最後の西日を反射して赤く光っていた。
来年にはなくなる建物。中の機材も、カセットも、MDも、全て処分される。美空の声の地図の素材も。
帰り道、湊はイヤホンをつけなかった。
住宅街の音を聞きながら歩いた。犬が吠える声。自転車のブレーキの音。どこかの家のテレビ。夕飯の匂い。
十分。
その十分間に何があったのか。なぜ十分遅れたのか。
あの建物と本棟の距離は五十メートルだ。走れば十秒。歩いても一分。にもかかわらず、美空が転落してから誰かが駆けつけるまでに、十分以上の空白がある。
停電で暗かったから。雨音で声が聞こえなかったから。それだけでは説明がつかない。
誰かがいたはずだ。あの夜、旧特別棟の近くに。あるいは中に。美空が一人で夜の旧特別棟にいたのだとしても、停電が起きれば誰かが様子を見に来るのが自然だ。放送部の仲間か、教師か。
来なかったのか。来たけれど、遅れたのか。来ていたのに、動かなかったのか。
夕日が沈んだ。空が紺色に変わっていく。
家に着いた。玄関の鍵を開ける。母親が台所にいる気配。「おかえり」と声がする。「おかえり」と返す。
部屋に入って、鞄を置いた。机の引き出しから、去年の取材ノートを引っ張り出す。美空の音声作品を文字起こししたときのメモが残っているはずだ。
ノートをめくる。九月。十月。十一月。
十月のページに、文字起こしのメモがあった。
「声の地図 完成版 9分47秒」
その下に、湊自身の走り書き。
「冒頭のテスト録音消し忘れ? 『聞こえてるかな』。笑い声。文字起こしには含めず」
あの声だ。昨日、スピーカーから聞こえた声と同じ。
ノートの余白に、もう一つメモが書いてあった。自分の字だが、記憶にない。いつ書いたのか分からない。
「素材は何本あるのか? 完成版に使われなかった録音は?」
去年の自分が、同じ疑問を持っていた。
そして、追わなかった。
なぜだろう。
湊はノートを閉じた。机の上に置いた。
窓の外は暗くなっていた。星は出ていない。曇り空だ。
明日、もう一度旧特別棟に行こう。今度はMDプレーヤーの電源コードを探して、素材⑧を聴く。美空が最後に録音した声を。
まだ終わってない。
まだ終わってない。 湊は、自分にそう言い聞かせた。