小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第19話「雨の夜の音」

3,801文字 約8分

雨が降った。

 十一月の最初の雨。朝から細かい雨が降り続いて、昼過ぎから強くなった。部活は中止。下校する生徒の傘が、校門を出ていくのを教室の窓から見ていた。

 事故の夜も、雨だった。

 放課後。傘を差して校舎を出た。正門ではなく、裏門を通った。渡り廊下を抜けて、旧特別棟の前に立った。

 暗くなりかけている。十一月の午後五時。雲が厚くて、いつもより暗い。雨の音が校舎の壁に反射している。

 湊は旧特別棟の入り口に立って、耳を澄ませた。

 雨音。

 断続的ではなく、連続した音。地面に落ちる音。屋根を叩く音。排水管を流れる音。全部が重なって、一つの帯のような音になっている。

 この音の中で、声は聞こえるのか。

 湊は旧特別棟から離れて歩いた。十メートル。二十メートル。三十メートル。

 三十メートル先で振り返った。旧特別棟の二階の窓が見えた。あの窓から美空は落ちた。

 叫んだら聞こえるだろうか。

 試してみたかったが、叫べなかった。夕方のキャンパスに一人で立って叫ぶ理由がない。代わりに、手を叩いた。強く。両手のひらを合わせて。

 パン。雨に吸われて、音が鈍くなった。

 五十メートル先の校舎に向かって歩きながら、断続的に手を叩いた。パン。パン。パン。

 結論。晴れた夜なら五十メートル先でも聞こえる。雨の夜は、三十メートルが限界。叫べばもう少し届くかもしれない。

 美空は叫んだのだろうか。

 転落の瞬間、叫ぶ時間があったのか。落下は一秒もかからない。二階の高さは約六メートル。自由落下なら一秒強。叫ぶには十分な時間だが、予期しない転落の場合、声を出す余裕があったかどうか。

 雨の音を聞きながら、湊は各人の証言を思い出していた。

 奈央。

 『何か聞こえた気がしたけど、雨だと思った』

 奈央は事故夜、自宅にいたと言っている。だが、彼女の家は学校から徒歩十分。窓を開けていれば、雨の合間に音が届くかもしれない距離。

 聞こえた気がした。でも雨だと思った。

 聞こえていたのかもしれない。美空の声が。あるいは物が落ちる音が。雨の夜に混じって、判別できなかった。

 千紘。

 『旧特別棟の方向から足音が聞こえた。走っている音』

 千紘は保健室を出て、旧特別棟に向かった。足音を聞いた。走っている誰かの足音。雨の中でも足音は聞こえる、水溜まりを踏む音、アスファルトを蹴る音。

 足音の主は、美空ではない。美空は建物の中にいた。外で走っていたのは別の誰か。

 颯真か。

 颯真の空白時間。用具室からグラウンドを抜けて、旧特別棟の方向に、走った可能性。走って、入り口の前で止まった可能性。

 澪。

 『寝ていた。目が覚めたとき、何か口にしていた』

 澪は学校の近くにいた。夜の散歩。眠れない体質。そして夢漏れの体質。近くにいる人間の夢を、自分の口で喋ってしまう。

 事故の夜に、旧特別棟の近くで意識を落としかけた。そして、近くにいた誰かの恐怖を口にした。

 「行かせないで」。

 それは誰の声だったのか。千紘か。颯真か。美空自身か。

 雨が強くなった。傘を叩く音が大きくなる。

 湊は旧特別棟の入り口に戻った。扉は施錠されている。ガラス越しに中を見た。暗い。非常灯は、今も点いていない。

 この暗闇の中で、千紘は階段を上がろうとして転んだ。颯真は入り口の前で足が止まった。

 暗かったからだ。非常灯が点いていれば、階段は見えた。入り口の先は見えた。

 桐野が申請を再提出しなかった非常灯。教頭が予算会議に上げなかった修繕費。

 雨の音と暗闘。

 二つの条件が重なって、全員の動きを止めた。

 湊は傘の下で立ち尽くしていた。靴がすでに濡れている。十一月の雨は冷たい。指先がかじかむ。

 事故の夜も、こんな寒さだったのだろうか。美空は地面に倒れていて。雨に打たれて。二十四分間。

 二十四分。

 二十四分の間に、声を出せていたのだろうか。意識があったのだろうか。

 分からない。事故報告書には書かれていない。

 湊は旧特別棟を離れた。校門に向かって歩いた。

 スマートフォンが震えた。隼人から。

 『雨すごいな。どこにいる?』

 返信を打った。

 『学校。もう帰る』

 『傘持ってるか?』

 『持ってる』

 『了解。気をつけて帰れよ』

 隼人の何気ないメッセージ。傘を持っているかどうかの確認。

 一年前の雨の夜、美空に、こういうメッセージを送った人間はいただろうか。

 「どこにいる?」と聞いた人間は。「気をつけて」と言った人間は。

 いなかったから、美空は一人で旧特別棟にいた。

 雨の中を歩いた。校門を出た。住宅街の灯りが濡れた路面に反射している。

 取材ノートは鞄の中。濡らせない。頭の中にメモした。

 「雨の夜の検証。叫び声の到達距離は約三十メートル。美空が叫んだかどうかは不明。各人の証言:奈央は『雨だと思った』。千紘は足音を聞いた。澪は夢漏れで『行かせないで』。全員が何かを聞いた。でも全員が、それを雨の音か、別の何かだと判断した」

 聞こえていた。でも聞こえなかったことにした。

 意図的ではない。雨が、判断を曇らせた。

 帰り道の雨が、まだ降り続いていた。