小説置き場
放課後の残響 逢坂みなも

第17話「先生の事情」

4,806文字 約10分

桐野直人は放送部の顧問だった。

 四十代後半。国語科。眼鏡をかけていて、ネクタイが少し曲がっている。職員室の自分のデスクで採点をしている姿を、湊は何度も見たことがある。

 廊下で声をかけた。放課後。職員室の前。

「桐野先生。少しお時間いただけますか」

 桐野は湊を見た。一瞬、何かを計るような目をした。それから「いいよ」と言った。

 空き教室に移動した。三階の美術室。放課後で誰もいない。石膏像が棚の上に並んでいて、夕方の光に白く浮かんでいる。

「何の話?」

「旧特別棟の設備のことです」

 桐野の手が、ポケットの中で動いた。何かを握ったような動き。

「設備」

「非常灯の不具合です。事故の夜、旧特別棟の非常灯が点かなかったことは報告書にありますが、その前から不具合の報告があったと聞きました」

「……誰から聞いた」

「資料を確認しました。設備点検の記録に、半年前に『要修理』の記載があります」

 桐野が椅子に座り直した。背筋が少しだけ丸くなった。

「そうだ。半年前に点検業者が入って、旧特別棟の非常灯と階段の手すりに不具合を指摘した。報告書は上がっている」

「修理は」

「されていない」

「なぜですか」

「予算だよ」

 桐野の声に苦味があった。

「旧特別棟は統廃合で取り壊しが決まっている建物だ。取り壊す建物に修繕費を出すかどうかは、判断が分かれる。教頭に予算申請を出した。教頭は『優先順位が低い』と判断して、予算会議に上げなかった」

「先生は再提出しなかったんですか」

「……しなかった」

 沈黙。美術室の窓から風が入った。カーテンが揺れて、石膏像に影が動いた。

「しなかった理由は」

「正直に言えば、俺もそう思ったからだ。取り壊す建物だ。修繕費をかける意味がない。非常灯が切れていても、どうせ誰も使わない建物だから」

「美空は使ってました」

「使用許可は出ていなかった」

「出ていなかったのは、申請が教頭に届く前だったからでは」

 桐野が目を伏せた。

「知ってるのか。許可の件」

「琴葉さんから」

「……黒沢さんか」

 桐野が眼鏡を外した。レンズを拭いた。時間を稼ぐ仕草。

「あの夜、俺は本棟の職員室にいた。文化祭の準備の残務処理。九時過ぎに停電があった」

「停電を確認してから、旧特別棟には行かなかったんですか」

「行こうとした。だが教頭が先に指示を出した。『まず本棟の生徒の安全を確認しろ』と。文化祭準備で遅くまで残っている生徒がいたから」

「それは、正しい判断ですよね」

「正しいよ。本棟にいる生徒の安全が最優先だ。旧特別棟には誰もいないはずだった。使用許可は出ていないんだから。だから後回しにした」

「後回しにして」

「本棟の巡回を終えて、旧特別棟に向かったのは十時十二分頃だ。もう」

 桐野の声が途切れた。

「もう遅かった」

「……ああ。遅かった」

 美術室の空気が冷えていた。十月末の放課後。日が落ちるのが早くなっている。

「先生。一つだけ聞いていいですか」

「何だ」

「非常灯が正常だったら、違いましたか」

 桐野がゆっくりと首を振った。

「分からない。非常灯が点いていれば、千紘が階段で転ばなかったかもしれない。颯真が中に入れたかもしれない。でも、『かもしれない』は結論じゃないんだ」

「分かってます」

「分かってないよ。柊くん。分かってたら、こんな話は聞きに来ない」

 桐野の声が硬くなった。怒りではない。もっと古い感情。後悔が酸化して硬くなったもの。

「俺は予算申請を再提出しなかった。教頭は予算会議に上げなかった。点検業者は報告書を出しただけだ。校長は報告書を読まなかった。誰が悪い?」

「……全員」

「全員。でも全員ということは、誰も悪くないのと同じなんだよ。制度の中では」

 制度。システム。一人の悪意ではなく、複数の人間の先送りが重なって条件を作った。非常灯が点かなかったのは、一人の怠慢ではなく、制度の隙間だった。

「桐野先生」

「何だ」

「先生は、毎日考えてるんですか。あの夜のこと」

 桐野が窓の外を見た。グラウンドが見えた。サッカー部の練習が始まっていて、ボールを蹴る音が聞こえた。

「毎日じゃないよ。でも、旧特別棟の前を通るたびに。あの建物が見えるたびに」

「取り壊しが決まってますよね」

「来年の春に取り壊しだ。そうしたら、目の前から消える。消えたら、考えなくなるかもしれない。考えなくなったら、楽になるかもしれない」

「でも」

「でも、楽になっていいのかどうか、分からない」

 桐野が立ち上がった。椅子が鳴った。

「柊くん。もう一度だけ言っておく」

「何ですか」

「あまり深入りするな」

 その声は、怒りではなく、恐れだった。湊が傷つくことへの恐れか、湊が真実を見つけることへの恐れか。あるいは、両方か。

「先生。ありがとうございました」

「礼を言われることじゃない」

 美術室を出た。廊下は薄暗かった。蛍光灯が一本切れている。取り替えの申請は出ているだろうか。出ていても、いつ替えてもらえるだろうか。

 取材ノートに書いた。

 「桐野。非常灯の修繕費未申請(再提出せず)。教頭の予算判断。制度的な先送り。事故夜は本棟巡回を優先→旧特別棟到着22:12。直接の原因ではないが、条件を作った。桐野自身がそれを自覚している」

 もう一行。

 「桐野先生は、旧特別棟が取り壊されることを、待っている。目の前から消えるのを。でも楽になっていいのか分からない」

 四つの属性。「正しかったと思い込んでいる人」。

 桐野は、正しかったと思い込んではいない。正しくなかったことを知っていて、それでも制度が自分を免責していることに苦しんでいる。

 四つの属性のどれにも当てはまらない人間がいる。

 美空のリストは、完全ではなかったのかもしれない。